[#表紙(表紙.jpg)] 夢枕 獏 陰陽師 龍笛《りゅうてき》ノ巻 目 次  怪蛇  首  むしめづる姫  呼ぶ声の  飛仙  あとがき [#改ページ]   怪蛇      一  文月《ふづき》に入っても、まだ雨は降り続いていた。  糸のように細い雨が、止むことなく、ほそほそと天から落ちてくるのである。  簀子《すのこ》の上に座して、源博雅《みなもとのひろまさ》は、安倍晴明《あべのせいめい》と酒を飲んでいる。  まだ、昼間である。  午後にはなっていたが、夕刻までにはまだ時間があった。  空一面を雲が覆っているため、陽はどこにも射してはいないが、暗いという印象はなかった。  どこともない明りが、大気の中にある。  これまでより、多少は雲の厚みが薄くなっているのだろう。  晴明の屋敷の庭は、鬱蒼と草が繁っている。  生えている草は、ほとんどが野草の類《たぐい》であった。  蛍袋《ほたるぶくろ》。  釣船草《つりふねそう》。  露草。  葉は、雨に濡れて光っている。  白い狩衣《かりぎぬ》を纏《まと》った晴明は、柱の一本に背をあずけ、片膝を立てて、見るともなく庭へ視線を放っている。  その晴明へ、 「だから、どうも、妙なことばかりがおこるのだよ、晴明──」  杯を口に運びながら、博雅は言った。 「妙なこと?」  晴明が、庭へ眼を向けたまま言った。 「今言ったではないか」 「何をだ」 「蛇のことさ」 「ほう」  初めてそれを聴くように、晴明はうなずく。 「で、蛇がどうしたのだ」 「あちらこちらに出るのだよ」 「あちらこちら?」 「しばらく前には、藤原鴨忠《ふじわらのかもただ》殿のお屋敷に出た」 「ほほう」 「こういうことだ」  そう言って、博雅はその話を始めたのであった。      二  藤原鴨忠の屋敷に仕えている、小菊という女が、歩く時に、右足を引き摺るようになったのが始まりであった。  最初の頃は、軽く引き摺っていたのが、二日、三日と経《た》つうちに、見てもはっきりそれとわかるように、足を引き摺って歩く。しかも、歩く時には痛そうに顔をしかめたりする。 「どうしたのか?」  屋敷の者に問われて、 「右脚の太股のところに、性《たち》の良くないできものができまして──」  それが痛むのだと小菊は言った。  見てみれば、なんと、話の通りに小菊の右脚の白い柔らかそうな太股の内側に、大きなできものがあった。大人の拳ほどの大きさで、赤紫色に腫れあがっている。  家の者は、驚き、さっそく心得のある者を呼んで、薬を塗ったりしてみたが、一向に腫れがひく気配がない。刃物の先を焼いて、それで、できものに傷をつけ、中の膿《うみ》を出そうとしたのだが、膿は出ず、出てくるのは血ばかりで、 「痛い痛い」  と小菊が声をあげるから、それ以上のことはできなくなってしまった。  刃物の傷は治っても、そのできものは小さくならず、さらにひとまわりも大きくなった。  困り果てているところへ、奇妙な老人が屋敷を訪ねてきた。 「できものでお困りとうかがいました」  その老人はそう言った。  頭は、蓬《よもぎ》のごとくに白髪がぼうぼうと生えており、長く伸びた髯《ひげ》も白い。  顔は、皺だらけで、その皺に埋もれて、眸《め》だけが、妖しく光っている。  しゃべる時に、唇の内側に見える歯の何本かはすでに抜けていて、残っている歯も色が黄色くなっている。  着ているものは、もとは白かったらしいが、今は薄汚れて、襤褸《ぼろ》のようであり、ようやく小袖《こそで》とわかる体《てい》であった。 「よろしかったら、このわしが、何とかしてしんぜようと思いましてな」  家人はたいへんに怪しんだが、 「どなたでも結構でございます。これをなんとかしていただけるのなら、何でもいたします」  悲痛な声で訴える小菊に、ものは試しで、何とかできると言うのなら、この老人にやらせてみようではないかということになった。  屋敷に上り込むと、老人は小菊を仰向けに寝かせ、着ているものの裾をめくりあげて、右脚の太股のあたりを覗き込んだ。 「おう、よう育っておるわ」  老人は、そう言って、嬉しそうに笑った。  家人に向きなおり、 「どこぞで、生きた犬を一匹、手に入れてきてはもらえぬか」  そう言った。  屋敷の者たちは不思議に思ったが、なりゆき上、もう断わるわけにもゆかず、外へ出て、通りを歩いていた一頭の犬を捕まえてきた。  老人は、庭に四本の杭を打たせ、これに犬を生きたまま仰向けに縛りつけた。 「錐《きり》を一本いただきますかな」  老人が言うと、屋敷の者が錐を一本持ってきて老人に渡した。  老人は、錐を懐にしまってから、件《くだん》の女を庭へ呼び降ろした。  この頃には、藤原鴨忠も、簀子の上に現われて、庭で老人が何をしようとしているのか、興味深げに眺めている。 「これへ、仰向けになりなされ」  老人は、小菊を、犬と向かい合わせになるように仰向けにさせると、その両脚を開かせて、犬をその脚の間に挟むようなかたちにさせた。  老人は、小菊の衣《きぬ》の裾をめくって、右脚の太股にあるできものを露わにした。  犬は、不安と怯えで牙をがちがちと噛み鳴らし、口の両端からは泡をふいている。 「どなたか、太刀《たち》を──」  老人が言えば、鴨忠がさっそく、ひと振りの太刀を持って来させ、 「これでよいか──」  老人に太刀を渡した。 「充分でござります」  老人は、太刀を抜き放ち、小菊の開いた両脚の間で仰向けになっている犬の腹に、無造作にそれを打ち降ろした。  犬が、 「ぎゃっ」  と大きく叫べば、 「おう」 「むう」  見ていた者たちが、思わず声をあげた。  太刀の先で、ざっくりと犬の腹が縦に裂かれて、血が飛び散った。その血が、小菊のできものの上にも振りかかった。  小菊は、あまりの怖ろしさに、そこで意識を失ってしまった。 「大丈夫なのか?」  屋敷の者が声をかければ、老人は少しも動じた様子を見せず、 「じきでござります」  にいっ、と唇の端を吊りあげて笑った。  しばらくは、荒い呼吸をしながら生きていた犬も、じきに絶命した。 「なんとも、凄まじや……」  それを眺めていた鴨忠が、つぶやいた。 「それで、どうするのじゃ」  簀子の上から鴨忠が問えば、 「待ちまする」  老人が言う。 「待つ?」 「はい」 「どのくらいじゃ」 「じきでござります」  老人は、先ほどと同じ言葉を繰り返した。  と── 「おう!」 「見よ!」  それまで、物も言わずにこれを眺めていた屋敷の者たちが、声をあげて小菊の脚を指した。  大人の拳よりも大きく膨れあがったできものの表面が、ぽっちりと割れて、そこから何か黒いものが顔をのぞかせたのである。 「これは!?」 「蛇ではないか!?」  まさに、それは蛇としか思えぬものであった。  小菊のできものの内部から顔を出したものは、黒い蛇の頭部であったのである。  見ているうちにも、蛇は這い出してきて、あっという間に一尺近くになった。  這いながら、蛇は、その頭部を、犬の裂けた腹に向けている。ちょうど、小菊のできものから、犬の腹まで、血の道ができている。蛇はその道を這ってゆくのである。  しかし、これほどの大きさの蛇が、いったいあのできもののどこに入っていたのか。  二尺ほども蛇ができものから這い出てきたところで、老人は、懐から先ほどの錐を取り出した。  蛇に向かって歩を進めると、身をかがめ、いきなりその蛇の頭部へ、横ざまに錐を貫き通していた。  ぐねぐねと身をゆすって、蛇は小菊の脚の中に逃げもどろうとするのだが、しかし、蛇の頭部を貫いた錐で老人が引っぱっているため、もどることができない。  脚の肉の中で、引き出されまいと蛇が尾を振っているらしく、そのあたりの肉までが気味悪く動いている。  やがて──  蛇も力尽きたのか、老人の手によってずるずると、小菊の脚の中から引き摺り出されてきた。  老人が手にした錐からぶら下げられたその姿を見れば、長さ四尺余りの黒い蛇であった。  しかし、蛇とはいっても、眼が常の蛇とは違う。眼のあるべき場所にあるのは穴だけで、瞳がなかった。  また、その身体《からだ》を覆っているのは逆鱗《さかうろこ》である。  その蛇は、錐で頭部を刺されているにも拘わらず、まだ生きており、錐を持った老人の右腕にくるくると尾をからみつけた。 「それが、小菊の中に入っていたのか」  鴨忠が問えば、 「さよう」  老人がうなずく。 「いったい、それは何なのだ」 「蛇の姿はしておるが、実はこれは蛇ではない。いや、蛇ではあるが、もっと別のものでもある」 「別のもの?」 「はい」 「何じゃ」 「余人は、知らぬにこしたことはありません」  老人は、答えなかった。 「礼をしたい。何が望みじゃ」  鴨忠が言った。 「礼などはいらぬが──」  老人が、左右の唇の端を吊りあげて、にんまりと笑った。 「──これをもろうてゆくが、かまわぬであろうな」  そう言った。 「もろうていって、何とする?」  鴨忠が問えば、 「さあて、何といたしまするかなあ」  老人は、何とも答えなかった。      三 「ま、そういうことが、しばらく前にあったということなのだよ、晴明──」  博雅は言った。  その老人は、腕に蛇を巻きつかせたまま、鴨忠の屋敷から出ていってしまったというのである。 「犬をか──」  晴明がつぶやいた。 「むごいことをする……」  博雅は、今、自分で話した光景を頭の裡《うち》に思い描いたのか、眉をひそめた。 「うむ」  晴明がうなずくと、それに気をよくしたのか、 「なかなか妙な話であろうが」  博雅は、晴明に向かって、そう言った。 「妙には妙だが……」 「妙だが、どうだというのだ」 「博雅よ、まだ他にも、あちらこちらに蛇の話がありそうな口振りであったが、どうなのだ」 「ある」 「それを話してはもらえぬか」  晴明が言うと、 「わかった」  うなずいて、博雅は次の蛇の話をしはじめた。      四  このことがあったのは、参議|橘好古《たちばなのよしふる》の屋敷である。  しかも、蛇の害にあったのは、橘好古本人であった。  やはり、しばらく前──  急に、好古の背中がしくしくと痛みだしたのである。  寝ちがえたのであろうと思っていたのだが、なかなかその痛みがひかない。  一日、二日と過ぎるうちに、背がだんだんと膨らみ始めた。  その膨らみは、始めは小さかったのだが、次第に大きさを増してゆき、握り拳ほどの大きさから、五日目には背中全体に広がった。  背に、鉢を被《かぶ》せたようになった。  しかも、色は青黒い。  薬師《くすし》を呼んで、いろいろとやってみたのだが、少しもよくならない。  背中はいよいよ膨らんでゆき、痛みと共に痒《かゆ》みもある。  手を背へ伸ばし、爪を立ててばりばりとそこを掻きむしってしまうため、瘤《こぶ》のように盛りあがった背の皮膚は、もうぼろぼろになっている。  終《つい》には立つこともできぬようになり、かといって仰向けに寝ることもできず、うつ俯せになって背を上にして、一日中寝床から起きあがれぬようになってしまった。  食事の時と、用を足す時に、やっと家の者に支えられて起きるといった体であった。  困り果てていたところ、好古の屋敷へ、 「御難儀《ごなんぎ》な様子でございますな」  奇妙な風体の老人が訪ねてきた。  蓬髪《ほうはつ》。  襤褸《ぼろ》のごとき衣。  炯炯《けいけい》と光る眸。  家の者が怪しんでいると、 「主《あるじ》の橘好古殿、このような様子ではありませぬか」  外には秘していたはずの、好古の様子をみごとに言いあててしまった。 「この儂《わし》が、何とかしてしんぜようと思いましてな」  老人は言った。  老人は、肩から、口を紐《ひも》で縛った袋のようなものを下げている。  なんとその袋は、犬の生皮《なまがわ》であった。  何頭かの犬を殺し、その皮を剥いでつなぎ合わせて袋にしたものであるらしい。まだ新しい血の臭いがぷんぷんと漂ってくる。  老人の言葉を主の好古に取りつぐと、 「とにかく、これを何とかしてくれるのなら誰でもよい」  息も絶えだえにそう言った。  さっそく、老人は屋敷の中に招じ入れられた。 「ほうほう、なんともこれはまたみごとな……」  老人は、好古を見るなり、そうつぶやいた。  肩から下げていた袋を下ろし、 「これを、あそこへ掛けてくれぬか」  屋敷の者に言いつけて、ちょうど好古の真上あたりの梁《はり》から、それをぶら下げさせた。  懐から、拳ほどの大きさの生の肉の塊りを取り出し、梁から下がった袋の中に、それを入れ、 「これほどの青竹を四本持ってきてくれぬか」  そう言った。  好古の屋敷には、ちょうど竹林があったので、そこからさっそく竹を切ってきて、四本の青竹が用意された。 「炭を熾《おこ》して、塩をひと掴《つか》みほどこれへ」  熾った炭で、四本の青竹の先を焙《あぶ》り、そこへ塩をなすりつけた。  屋敷の者の中から四人を選び、それぞれにその青竹を握らせた。  寝床の上にうつ俯せになった好古の衣を剥ぎ、大きく盛りあがった背を露わにすると、 「さあ、その青竹にて、この背を打たれよ」  老人が言った。  しかし、屋敷の者たちにとって、好古は主人である。いきなり、青竹でその背を打てと言われて、打てるものではない。 「か、かまわぬ。打て──」  好古は言った。  そして、四人の男たちは、手にした青竹で好古の背を打ち始めた。 「さあ、もっと強く打て──」  老人が言う。  たちまちに、背の皮膚は裂けて、血が滲《にじ》んでくる。  好古は、歯を噛んで苦痛に耐えている。 「やめてはならぬぞ」  老人が言う。  と──  叩いているうちに、奇妙なことが起こった。  上の梁から吊るした犬皮の袋が、最初は萎《しぼ》んでいたのだが、だんだんと膨らみ始めたのである。  何が起こっているのか。  しかも、その袋の中に入っているものは、生きているらしい。  吊るされた袋が揺れ、その表面がもぞもぞと動く。  いったい、どうして袋が膨らんでゆくのか。 「おう……」  青竹を握った者のひとりが声をあげた。 「見よ」  なんと、大きく盛りあがっていた好古の背が、だんだんとしぼみ始めているのであった。  同時に、上から吊り下げられた袋が膨らんでゆく。  どういう理由でかはわからぬが、青竹で叩かれることによって、好古の背から追い出されたものが、袋の中に入っていっているらしい。 「続けよ」  老人の言葉に、屋敷の者たちは、休むことなく好古の背を打ち続けた。  そのうちに、すっかり、好古の背は萎んで、後はそこの皮がゆるんでいるだけとなった。  青竹で叩かれ、皮膚が裂けて血が滲んでいるが、もはや、その背の様子は普通の者とかわらない。  かわりに、梁から下がった犬皮の袋は、ぱんぱんに膨らみきっている。  しかも、その表面が、もこもこと動いている。 「袋を下ろせ」  老人は、三人がかりでやっと下ろした袋を眺め、 「御苦労であった」  満足したように言った。 「これは、もろうてゆきまするぞ」  重そうなその袋を、ひょいとその老人が肩に担ぎあげた。 「お、お待ちを──」  好古が、衣を身に纏《まと》いながら起きあがった。 「その袋の中を見せてはもらえまいか」 「易きこと」  老人は、肩から床の上にその袋を下ろし、口を縛っていた紐をほどいた。 「ご覧《ろう》じなされよ」  好古の眼の前で、袋の口を広げてみせた。  そこから、中を覗くなり、好古は悲鳴をあげて後ろへ跳びのいた。  なんと、その袋の中には、ぎっしりと、百匹に余る黒い蛇が、互いに身を絡ませあって蠢《うごめ》きあっていたのである。  からからと笑いながら、老人は再び袋を肩に担ぎ、屋敷の外へ出ていった。      五 「まあ、そのようなことがあったというのだよ、晴明──」  博雅が、ひとしきり話し終えて、持っていた杯を簀子の上にもどした。  雨は止んでいた。  いつの間にか、夕刻になっている。  それが、あまり暗く感じないのは、博雅が話をしている間に雨が止み、空を覆っていた雲が割れはじめているからであろう。  雲と雲の谷間に、青く澄んだ夕刻の空が覗いていた。すでにそこの空は夏の色をしていた。 「ここしばらくの間、おれのまわりではたて続けにそのようなことがあったのだよ」 「なるほど」 「どうも、藤原鴨忠殿の屋敷で起こったことと、橘好古殿の屋敷で起こったこととは関係があるとしか思えぬのだが、しかも、それがどういう関係になるのかというと、おれにはさっぱり見当がつかぬのだなあ」 「ふうむ」  晴明は、思案気な顔でうなずいてみせ、 「藤原鴨忠殿と、橘好古殿のお屋敷に、奇妙な老人が訪ねてきたというのは、いつのことなのだ?」  そう問うた。 「鴨忠殿のところが、四日前。好古殿のところが、昨日のことだったはずだ」 「ほう」  晴明がうなずく。 「おい、晴明。何かわかったのか」 「いや、わかったわけではない。ちょっと思うところがあるのさ」 「思うところ?」 「ああ」 「何なのだ」 「まあ待て。それよりも、もうひとつ教えてくれ。鴨忠殿と好古殿、ここ二十日ばかりの間に、東寺へお出かけにならなかったか」 「そう言えば、半月ほど前に、今は亡き空海和尚が唐より持ち帰られた品々を見にゆくのだと言うて、出かけて行ったはずだが──」 「どちらがだ?」 「言うていたのは鴨忠殿だが、たしか、好古殿も御一緒にとおっしゃっておられたような気がする」 「ふうん」 「おふたりとも、唐より伝来の品には、ことのほかうるさいお方でな。仏像であるとか、香炉であるとか、軸であるとか、仏具や筆など、空海和尚がじきじきに唐より持ち来たった品が東寺にあるのを知っていたから、かねてよりそれを見たいと、寺の方には話をなさっていて、半月前にそれが実現したということなのだろう」 「そうか」 「それよりも、晴明よ、どうしてここで東寺の名が出てくるのだ。おまえ、何か知っているのか──」 「知っている」 「何だ?」 「待て」  晴明は、そう言うと立ちあがり、奥へ姿を消した。  ほどなく、紫色の布でくるんだ、大人の頭ほどの大きさのものを持ってもどってきた。  晴明は、もとのように簀子の上に座して、それを博雅の膝先に置いた。 「何なのだ、これは?」 「開けて見よ、博雅」 「うむ」  博雅が、包みを手に取ってそれを開けてみると、中から、木彫りの一体の仏像が出てきた。 「何だこれは!?」  翼を半開きにした孔雀の上に、明王像が座している。 「孔雀明王さ」 「それはわかる。どうして、これをおれに見せるのだ」 「その明王像は、空海和尚が、唐の都から持ち帰ってきたものだ。それを、おれが東寺から借り受けたのさ」 「東寺だって?」 「明恵《みようけい》殿からな。それが、昨日のことさ」 「どういうことなのだ」 「だから博雅よ。それをこれから調べてみようと考えているのさ」 「調べる?」 「ああ。ちょっと出かけねばならぬだろうよ」 「出かける? どこへだ」 「西の京さ」 「西?」 「ゆくか」 「むむ」 「じきに夜になる。雨もあがったようだし、酒などぶら下げて、これから西の京へゆくというのも、悪い考えではないと思うているのさ」 「む」 「どうだ」 「むむむ」 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。      六  牛車《ぎつしや》が、小石を踏みながら前に進んでゆく。  晴明と博雅は、牛車の中で無言で向かい合っている。  すでに陽は沈み、あたりはすっかり夜になっていた。  空に浮かんだ雲が、凄い速さで東へ動いている。いつの間にか、雲よりも空の部分の方が大きくなっていた。  雲と雲の間の、驚くほど透明な空に、星が光っている。  そして、西の天に、沈みかけた月が掛かっていた。  牛飼童《うしかいわらわ》もなしに、黒い牛がただ一頭、夜の都大路を西へ進んでゆく。  西の京は、東に比べてさびれており、人家の数も少ない。初めの頃はちらほら見えていた灯火も、今は見えない。 「しかし、晴明よ──」  博雅が、黙したままの晴明に声をかける。 「何故、東寺ではなく西の京なのだ」  紅い唇を閉じ、静かに簾《すだれ》の向こうの夜の闇に視線を放っていた晴明は、顔をそちらに向けたまま、 「あるお方が、こちらにおられるからだ」  そう言った。 「あるお方?」 「うむ」 「誰なのだ」 「行けばわかる」  晴明は、膝の上に、あの紫色の布の包みを抱えている。 「しかし、何故、それを持ってきたのだ?」  博雅が問う。 「場合によっては、これが必要になるやもしれぬのでな」 「必要に?」 「これは、もともとは天竺《てんじく》の神ぞ──」 「ほう」 「孔雀は毒蟲や毒蛇を喰《くら》うのでな、それが神として祭られ、仏の尊神となっていったのさ。神とはいえ、人によってかけられたその呪《しゆ》のありようが、刻《とき》と共に変ってきたものだ」 「神に呪か」 「神といえども、この呪から放れてはこの世に存《そん》しえぬのだよ、博雅──」  晴明が博雅を見やった時、ゆっくりと速度を落とした牛車が、そこに停まった。 「着いたぞ、博雅」  晴明が言った。  牛車を降りると、そこは、草の上であった。  あがったばかりの雨に濡れた草が、博雅の沓《くつ》と裾を濡らした。  沈みかけた月明りに見やれば、そこは、草深い、小さな破《や》れ寺の前であった。  微かに、夏の虫が鳴き始めている。 「ここか」  博雅がつぶやいた。  うなずきながら、晴明は、破れ寺の方を見やり、 「おられまするか、道満《どうまん》殿──」  声をかけた。  と── 「おう……」  破れ寺の中から、低い声があがり、板の軋《きし》む音がして、黒い人影が姿を現わした。 「道満というのは、あの蘆屋《あしや》道満殿のことか?」  博雅が訊く。 「そうだ」  低く晴明がうなずいた時、 「来たか、晴明……」  人影から声がかかった。 「来ぬか」 「行けませぬ」  晴明が言った。 「用は?」 「藤原鴨忠殿のお屋敷と、橘好古殿のお屋敷で手に入れたものを、お返しいただきたく、やってまいりました」  晴明が言うと、闇の中で、低く道満が笑う声が響いてきた。  小さく、泥が煮えるような、あの道満の笑い声であった。 「返すも何も、あれは、主《ぬし》のものではあるまい」 「東寺の、明恵和尚から頼まれました」 「ぬしが、人の仕事か」  ふふん。  と笑う声がする。 「取りに来よ」 「ですから、ゆけませぬ」  晴明が言うと、からからと道満が笑い出した。  その時──  ようやく博雅がそのことに気づいたらしい。 「お、おい、晴明──」  低い、堅い声で博雅は言った。  博雅の眼は、足元や、周囲の草の中に向けられている。 「動くなよ、博雅」  晴明は言った。  注意深く見れば、近くの草の中や、そこここの地面の上に、黒い、細長いものが無数に這っているのが見える。  ぬめぬめとした黒いその表面が、時おり、月光を受けて、青く光る。 「取れるものなら、主が勝手に取ってゆくがよい」 「では、そうさせていただきましょう」  晴明は、屈託のない声でそう言い、腹のあたりに抱えていた、紫色の布で包んだものを、解《ほど》き始めた。  そこから、孔雀明王が姿を現わした。 「おう」  道満が声をあげた。 「ナモ ブッダーヤ ナモ ブッダーヤ ナマ サマーヤ……」  晴明が、紅い唇で、小さく呪を唱えはじめた。  孔雀明王咒《くじやくみようおうじゆ》──孔雀明王の陀羅尼《ダラニ》であった。 [#この行2字下げ]覚者《かくしや》に帰命《きみよう》したてまつる。覚者に帰命したてまつる。教団に帰命したてまつる。金光孔雀明王に帰命したてまつる。大孔雀明妃に帰命したてまつる……  晴明が、その陀羅尼を唱えながら、草の中にそっと孔雀明王の像を下ろし、立ちあがった。  唇はまだ、呪を唱えている。 [#この行2字下げ]……創造主《ブラフマン》を主と仰ぐ者よ、至るところで害《そこな》われない者よ、われを護りたまえ。一切の諸仏に帰命したてまつる。僧スヴァーティは安楽なれ。百歳を生きさせたまえ、百秋を見させたまえ。  晴明の唱える陀羅尼と共に、ふたりの周囲の草叢《くさむら》が、ざわざわと揺れる。  何かと何かが、その生い繁った草の中で闘っているようであった。  それが、ゆっくりと、静まってゆく。 「フチ、グチ、グフチ、ムチ、めでたし……」  晴明が、長いその陀羅尼を唱え終った時、あたりはもとのようにすっかり静まっていた。 「済みましたか……」  晴明は、小さくつぶやき、さきほど草の中に置いた孔雀明王像を拾いあげた。 「おう……」  博雅が声をあげていた。  なんと、孔雀明王が座している孔雀が、その嘴《くちばし》に、一匹の黒い小さな蛇を咥《くわ》えていたのである。  さっきまでなかったものだ。  さらに、孔雀は、その左足の下に、もう一匹の黒い小さな蛇を押さえ込んでいたのである。  これも、先ほどまでなかったものだ。  晴明が抱えている像をよく見やれば、どちらの蛇も本物ではなく、木彫りの蛇であった。 「では、確かにお返しいただきました」  晴明が、道満に向かって頭を下げる。 「せ、晴明、ではこの孔雀が足に掴《つか》み、咥えているのは──」  博雅が訊いた。 「さっき、おまえも見たではないか」 「───」 「草の間にたくさんいた、あれがこれさ」 「へ、蛇か」 「そうだが、正確に言うなら、蛇というよりは、まあ、蛟《みずち》の一種であろうな」 「蛟!?」 「どちらでもよい。おまえの思うたものでいいのだ」 「しかし、あんなにたくさん、草の中にいたではないか」 「もともとは、ただ二匹であったものだ。一匹は、好古殿の背で、たくさんの数になったが、こうして孔雀明王殿がお出ましになれば、もとの数ということさ」 「む、むむ」  博雅が唸っていると、 「どうだ、晴明、酒を持ってきたのであろう。それを持って来ぬか」  道満が声をかけてきた。 「ゆきましょう」  二匹の蛟を捕えた孔雀明王を抱えて、濡れた草の間を、晴明がしずしずと歩き出した。  その後に博雅が続く。 「よう来た、晴明──」  道満が、嬉しそうに言った。      七  破《や》れ寺の中であった。  本尊はなく、屋根は破《やぶ》れ、そこから細く月の光が射している。  壁は半分崩れ、床の割れ目からは、草が顔を出している。  すぐ近くで、夏の虫が鳴いている。  灯火を、ひとつだけ点《とも》し、晴明は、博雅と共に床に座して、道満と向き合っている。  口の割れた瓶子《へいし》がひとつ。  欠けた器《かわらけ》がみっつ。  それぞれに酒が満たされて、三人は、ぽつり、ぽつりとそれを飲んでいる。 「しかしなあ、晴明、おれにはまだ、何があったのかよくわかっていないのだよ」  博雅が、酒を口に運びながら言った。  博雅にしてみれば、敵のいる場所へ乗り込んできたとの思いがある。  しかし、来てみれば、そこには道満がいて、晴明は道満が手に入れたものを、どうやら取りもどしてしまったらしい。道満にとっては、自分が何をやろうとしていたかはともかく、晴明はそのやろうとしていたことを邪魔しに来た人間である。ならば、どうして、道満は、こうして晴明と酒を飲んでいられるのか。 「まだ、何か騙されているような気がしてならないのさ」  博雅がそう考えるのも無理はない。 「全ては、まあ、明恵殿の不注意が原因なのだ」  晴明は言った。 「不注意?」  博雅は言った。 「藤原鴨忠殿、橘好古殿が来られるというので、お見せする品の手入れをなさったのさ」 「明恵殿がか」 「うむ。そのおり、この孔雀明王像も、埃りをぬぐい、きれいにしようとしたのだよ。しかし、この蛟が、なかなか邪魔になった。うっかり布でぬぐおうとすると、折れてしまいそうな気がしたのさ」 「───」 「その時、明恵殿は気がついたのだ。この孔雀明王像は、全て一本の木から彫り出されたのではなく、全部でみっつの部分からできあがっていることをな」 「ほう」  孔雀明王と、孔雀明王の乗っている孔雀は一本の木から彫り出されたものだが、孔雀が咥えている蛟と、足に捕えている蛟は、取りはずしができるようになっていたのだという。 「まあ、孔雀明王の孔雀が、蛟を咥えているという意匠は、そうあるものではない」  珍らしいというのなら、そこが珍らしいのだが、その蛟を取りはずして、汚れをぬぐう方がずっと仕事がやりやすいと考えた明恵は、二体の蛟を取りはずし、それを横に置いて、作業を終えた。 「ところが、明恵殿は、その二体の蛟を、もとにもどすのを忘れておられたのさ」  しばらくして、それに気づき、二体の蛟を捜したのだが、それが見つからない。 「そこで、はじめて、明恵殿は、事の重大さに気づかれたのだ」 「どういうことだ?」 「まず、これは、空海和尚が、百数十年以上も昔に、唐より持ち帰られた寺の重宝であるということだな」 「まだあるのか」 「ある。仮にもこれは、空海和尚が持ち帰られて後、東寺に置かれて、毎日、空海和尚や僧の読経を耳にしていたものだ──」 「う、うむ」 「何かの呪に使おうとする時、これほど強力なものはあるまいよ」 「しかし、晴明よ、おまえどうして、そういうことまで知っているのだ」 「明恵殿が、おれに話してくれたからさ」 「うむ」 「明恵殿は、よからぬ術を使おうとする者が、これを盗んだのではないかと考えた──」  そう言いながら、晴明は、微笑して道満を見やった。 「それが、明恵の失態と言えば失態であったということよ」  道満が、楽しそうに杯を口に運びながら言った。 「何故だ」 「おれの知るところになったからさ」  道満は言った。 「そういうことをやりそうな、あちこちの陰陽法師くずれに、東寺がさぐりを入れてきたからな。これは何かあったに違いないと、儂《わし》は思うたのさ」 「ということは、つまり──」 「蛟が消えたのは、この儂が仕業ではなかったということさ」  道満が言った。 「で、では──」 「蛟が自ら逃げ出したのだろうよ」  道満は言った。 「まさか、そのようなことが──」  博雅の声が大きくなる。 「なくはない──」  そう言ったのは晴明である。 「──以前も、仏師の玄徳《げんとく》殿の彫っていた天邪鬼《あまのじやく》が、広目天に踏まれるのいやさに、逃げ出したりしたことがあったではないか」 「……あった」 「この国に来てからだけで百数十年、孔雀に踏まれ、口に咥えられていた蛟たちだって、逃げたくもなるであろうさ。わざわざ、口からはずし、足の下から出してもらったら、この機会を利用せぬ手はない」 「だが、もとはこのような木ではないのか」 「拝まれれば、どのようなものにも魂が宿る。蛇じゃ蛟じゃと言われて、百年も経を聴かされれば、石も動こうというものさ」  晴明は言った。 「わしが調べたら、こともあろうに、藤原鴨忠、橘好古、なんと寺で水を飲んだというではないか」  道満が、笑いながら言った。 「水?」  博雅が訊く。 「ああ、そうらしい」  晴明がうなずいた。 「水?」 「おれも、明恵殿に訊ねたのさ。どなたか、寺で水を飲みませんでしたか、とな」 「そうしたら?」 「鴨忠殿、好古殿、井戸から汲んだ水を、そのおりに飲まれたという」 「何故、水のことが、そんなに──」 「蛟は、水精《すいせい》よ。最初に自由になったら、まず一番近い水へゆくであろうからな」 「では、二匹の蛟は、井戸へ──」 「そこの井戸が一番近かったからな」 「つまり、鴨忠殿、好古殿、蛟入りの水を──」 「おう。飲まれたようだな」 「それで、蛟が、体内に入ったと」 「そういうことだ」 「しかし、藤原鴨忠殿のお屋敷では、蛟が体内に入ったのは、侍女の小菊であったのではないか」 「鴨忠殿、いつも、自分が口にするものは、誰ぞに、先に毒見《どくみ》をさせることになっているのを知らぬのか」 「では、小菊殿が、毒見をした時、蛟が体内に──」 「まあな」 「好古殿の蛟は、どうしてあれだけ増えたのであろうかな」 「それだけ、好古殿が、体内に溜め込んでいた、悪しき気が多かったということだろう」 「悪しき気というと?」 「他人を妬《ねた》んだり、憎んだりする心のことだな」 「では、好古殿は、それがよほど強かったということか」 「であろうよ」  晴明は言った。 「わしも、調べて、誰が水を飲んだかわかったのでな。育つ頃を見計らって、それをいただきに行ったというわけさ」  道満が、にやにやしながら言った。 「何のために?」  博雅が問えば、 「めったにない式神《しきがみ》を手に入れる、ちょうど良い機会であったのでなあ」  道満は、声をあげて笑った。 「しかし、道満殿。そうして手に入れた蛟を、どうして、あのようにあっさりと返してしまわれたのですか──」  博雅が訊ねた。  くっ、  くっ、  くっ、  と、道満は楽しそうに笑ってから、 「その理由は、晴明に訊け。この男が出てきたからは、あのくらいが、手の打ちどころというところであろうがよ」  そう言った。  宴は、夜半まで続いた。      八 「晴明、あれは何のことだったのだ」  博雅が訊ねたのは、帰りの牛車の中であった。 「あれ?」  晴明が、何のことだかわからぬといった口調で、博雅の言った言葉を繰り返した。 「道満殿が、おまえに訊けと言っていたではないか」 「さて、何のことだったかな」 「とぼけるなよ、晴明。どうして、道満殿が、あっさりひきさがったのか、その理由をおれは訊いているのだ」 「このことか──」  暗い車の中で、晴明が、懐から何やら取り出そうとしている気配があった。  ほどなく、晴明が懐からそれを取り出した。  それは、黒く、細長いものであった。  ぼうっと、青い燐光《りんこう》を放っているため、闇の中でもそれがなんとか見てとれる。  それは、胴を晴明の右手に握られ、尾を、晴明の右手首にからみつけていた。 「晴明!」  博雅は、闇の中で腰をひいていた。 「そ、それは──」 「蛟さ」 「しかし、それは、そこに置いた孔雀明王を乗せた孔雀に──」 「あれは、もう、ただの木さ」  晴明は言った。 「な、なに!?」 「おれが欲しかったのは蛇のかたちをした木ではなく、それに憑いていたものさ。道満殿も、そこは同じだろう。ちょうど、二匹いたのでな、おれと道満殿と、一匹ずつ分けたのだ」 「な、なんと」 「これが、道満殿の言った、手の打ちどころさ」 「しかし、よ、よいのか」 「何がだ」 「東寺の方には、なんと言うつもりなのだ──」 「無事に取りもどしましたと言うさ」 「わ、わからないのか」 「何がだ?」 「あれが、もう、ただの木になってしまっていることがだ」 「それがわかっていたら、こういうことにはならなかったろうよ。もしも、ただの木になっているとわかれば、逆に、明恵殿はほっとされるだろうさ」  晴明は、闇の中で微笑し、左手の人差し指の腹で、蛟の顎のあたりを軽く撫でた。  蛟は、それが、心地よいとでもいうように、くねくねと、妖しく、晴明の手の中でその身をくねらせた。 [#改ページ]   首      一  賀茂保憲《かものやすのり》という人物について、書いておきたい。  この男、陰陽師である。  安倍晴明とは、同じ時代の闇を呼吸していた人物だ。  晴明の師である陰陽師|賀茂忠行《かものただゆき》の息子──長男である。  晴明とは兄弟弟子であるという史料もあるが、晴明の師であったとする説もある。  晴明よりも歳上であるが、あえてここではその年齢を記さずにおきたいと思う。その方が、これから記すことになる物語にとって有益であろうと考えるからである。  陰陽道は、やがて賀茂家の勘解由小路流《かげゆのこうじりゆう》と、安倍家の土御門流《つちみかどりゆう》というふたつの流れに大きく分かれてゆくことになるのだが、土御門流が安倍晴明を始祖とするなら、勘解由小路流の代表的な陰陽師が賀茂保憲ということになる。  その陰陽の術は、父であり師である忠行をしのぐとも言われており、ある史料には、   当朝以[#二]保憲[#一]為[#二]陰陽基模[#一]  とも記されている。 �本朝の陰陽師は賀茂保憲をもってその基《もと》となす�  と言っているのである。  晴明が、幼少の頃、師である忠行と共に下京する時、百鬼夜行のあることを、他の誰よりも先に気づいて、これを忠行に知らせたというエピソードは、すでに何度か書いている。  晴明と同様に、保憲もまた、子供の頃からこの世のものならぬものも見ることができたという。 『今昔物語集』に、次のような話がある。  ある時、賀茂忠行が、やんごとなき筋から祓《はらえ》を依頼されたというのである。  祓というのは、汚れや災厄をはらう儀式のことであり、行事的な祓もあるし、行事とは別に個々の具体的な禍事《まがごと》から身を守るための祓もある。 『今昔物語集』には、それが何のための祓であったのか具体的には記されていないが、話の内容から察するに、後者であったのではないか。  さて、この時、賀茂保憲はまだ十歳になったかどうかという童子であった。  この保憲が、出かけてゆこうとする忠行に、この自分も一緒に連れていって欲しいとせがんだのである。どうしても連れて行けと言ってきかない。  しかたなく忠行は、十歳になる保憲を伴なって、件《くだん》の祓殿《はらえどの》まで出かけてゆくことにしたのである。  祓殿というのは、祓の儀式を行うための建物であり、専用の祓殿もあるが、普通の屋敷やそのうちのひと間を、儀式のおりに祓殿として利用する場合もある。  祭壇を設け、その前に八《や》ツ脚《あし》を置き、その上に米だの魚だの肉だのの供えものを載せて、さらに馬や車、船などのかたちに紙を切って作ったものを置いた。  忠行は、その前に座して、何やらの呪《しゆ》を唱えはじめた。  祓を頼んだ者たちは、忠行の後方に座して、神妙にうなだれている。  保憲はといえば、忠行の横に座して、ぼうっとあたりを眺めたり、耳の横を指で掻いたりしている。  やがて、祓も終り、これを頼んだ者たちも帰り、忠行たちも祓殿を後にした。  その帰り──  忠行と保憲は同じ牛車《ぎつしや》に乗っている。  ごとりごとりと、牛車が進んでゆく。  帰り道も半ばにさしかかったかと思える頃、 「父上」  ふいに保憲が言った。 「何ぞ」  忠行が問えば、 「あれは、何だったのですか」  と保憲が言う。 「あれ?」 「妙なものたちを見ました」 「いつだ」 「父上が、祓の儀式をなさっておいでの時です」 「何を見た」 「父上が呪《しゆ》を唱えておいでのおり、人のようなものや人でないようなものたちが、どこからか現われてきたのです」 [#この行2字下げ]気色怖気《けしきおそろしげ》なる体《てい》した者共《ものども》の、人にも非《あら》ぬが、また人の形の様にして、二、三十人|許《ばかり》出来《いでき》たりて──  と『今昔物語集』は記している。  その異形の者たちが、米を喰《く》い、肉や魚を啖《くら》い、置いてある紙の馬や車、船などに乗って、儀式の間中、騒いでいたというのである。 「見えたのか、あれが」 「はい。他の者にはまったく見えていなかったようですが、父上にはあれがお見えになっていたのでしょう?」 「うむ」 「あれはいったい何であったのかとずっと考えていたのですが、どうにもわかりません。それで、父上におうかがいすることにしたのです」 「あれは、ああいうものたちなのだ」  忠行は言った。 「ああいうものたち?」 「ああ」 「よくわかりませぬが」 「あのようなものたちが、この世にはおるのさ。おまえが、この忠行の子でなければ、亡者であると簡単に答えておくところだが──」 「亡者ではないのですか」 「亡者ではあるが、ひと口に亡者というだけではとらえきれぬものたちだ」 「はて──」 「亡者というのは、そもそも、人が死して後にその魂魄がなるものだが、あれは、別に人が死ぬ死なぬにかかわらず、この世にあるものなのだ」 「───」 「この天地、石にも水にも樹にも土にもあのようなものたちがあり、わしがいておまえがいるように、あのものたちもこの天地の間に在って居るのだよ。そういうものに、人の魂魄が凝って憑いてしまったものがあれさ」 「ふうん」  と何やらわかったようなわからぬような返事を保憲はした。 「しかし、この父は、あれが見えるようになるまでには、何年もの修行をせねばならなかったのだぞ。おまえは、まだ何の修行もせぬ子供のうちからあれが見えてしまったのか──」 「はい」 「正直に言うがよい。今日以外にも、あのようなものたちを見たことが、これまでにもあったか?」 「はい。時おり」 「むう」 「父上のお仕事は、あのようなものたちを相手になさることなのですか」 「それだけではないが、まあ、そういうことになるか」 「おもしろそうですね」  その顔に笑みを浮かべて、保憲は言った。 「まだまだ先にと思っていたのだが、早くした方がよいな」 「何のことでしょう」 「おまえに、陰陽の道について教えることだ」 「陰陽の道?」 「この天地の理《ことわり》と呪《しゆ》についてな」 「ははあ」 「今のうちからあのようなものが見えていて、しかも何も知らぬとあっては、道摩《どうま》法師のように道を踏みはずしてしまうであろうからな。おまえには、この忠行の知る限りのことを教えてやろう」  気負い込んで忠行は言ったのだが、 「そうですか」  この十歳の童子の返事は、どこかのんびりしているところがある。  しかし、忠行は自分の言ったことを実行した。  帰ったその日から、忠行は、自らの言葉の通り、息子の保憲に対して、自分の知る全てのことを教えることにしたのである。  乾いた大地が水を吸収するように、保憲は父忠行の教えることの全てを、己れのものとしてしまったのであった。      二  ほろほろと酒を飲んでいる。  土御門小路にある安倍晴明の屋敷。  簀子《すのこ》の上に、安倍晴明と源博雅が座して、それぞれ自分の杯に手酌で酒を満たしては、ゆるゆるとそれを唇に運んでいる。  晴明は、いつものように背を柱の一本にあずけ、右の片膝を立てて、その右膝の上に右肘をのせている。  白い狩衣をふうわりとその身に纏《まと》い、晴明は、見るとはなしに庭に視線を注いでいる。  醒めた月光が、冴えざえと庭を照らしている。  秋の庭だ。  女郎花《おみなえし》や、龍胆《りんどう》、桔梗《ききよう》が、庭のそこここに生えている。その草叢《くさむら》の中で秋の虫が鳴いている。  晴明と博雅の間の簀子の上に、一本の瓶子《へいし》が置かれていた。  晴明と博雅の前には、酒の入っている杯がひとつずつ置かれている。  さらに、空の杯がもうひとつ。  酒の肴《あて》は、鮎であった。  ふたりの前にそれぞれ置かれた皿の上に、塩をふって焼いた鮎がのっていた。  焼いたばかりの、香ばしい鮎の匂いが、夜気の中に溶けている。 「秋の鮎というのは、何とはなしに哀しいものだなあ」  博雅は、そう言いながら、右手に持った箸《はし》で、鮎の背をしきりと押している。 「こうして秋の鮎を食べる頃になると、おれは、しみじみと刻《とき》の流れというものについて、考えずにはいられなくなってしまうのだよ」 「うむ」  晴明が、静かにうなずいた。  鮎は、年魚とも呼ばれている。  親は、秋に卵を産む。孵《かえ》った鮎の稚魚《ちぎよ》は川を下って海に出、そこで育ってから、またもとの川にもどってくる。それが、桜の散る頃である。  清流で石に付いた珪藻《けいそう》を食べながら成長し、秋になって水温が下がってくると、ひと雨ごとに下流に下って、また産卵をする。産卵をした鮎は、雄も雌もそれで死んでしまう。  鮎の寿命は、一年である。  この一年で、誕生、旅、成長、老い、死──その全てを鮎は経験するのである。 「なあ、晴明よ」  博雅は、箸で鮎の尾鰭《おびれ》を千切りながらつぶやいた。 「夏の間は、若葉のように青《あお》あおと元気のよかった鮎が、秋には黒く錆《さび》が浮いて老いてしまうのだ。まるで、人の一生を見るようではないか」  博雅は、次に箸で、鮎の首の周囲の肉を割ってほぐしている。 「こうやって、秋の鮎を食べるというのは、どうも罪深いことをしているような気もするのだが、では、まだ若いうちに鮎を食べてしまうのは罪深くないのかと問われると、それはそれでまた、罪深いような気もしてきて、おれは、しみじみと困ってしまうのだよ、晴明──」 「ふうん」 「およそ、人が何かを食べるというのは、その何かの生命を奪うことだからな。何かの生命を奪わねば生きられぬ、これはもう、人が生きるというそのことが、罪深いということではないか──」  博雅は箸を置いた。 「だからおれは、この時期に鮎を食べると、ついついそのようなことを色々と頭の中で考えてしまうのだよ」  博雅は、左手で鮎の首をつまみ、右手で鮎の胴を押さえた。  鮎の首を持った左手を、博雅がそろそろと引いてゆくと、首と一緒に、鮎の胴の中から骨が引き出されてきた。 「おう、うまく骨がとれたぞ」  博雅の左手に、鮎の頭部と骨がつままれており、皿の上に、きれいに骨のなくなった鮎の胴が残った。 「知っているか、晴明。今のようにすると、きれいに鮎の骨がとれるのだぞ」 「千手の忠輔に教えてもらったのだろうが」 「そうだ。あの黒川主の一件以来、おれの屋敷にも、時々鴨川で捕れた鮎を持ってきてくれるのだ」  背鰭《せびれ》と胸鰭《むなびれ》を取りのぞき、博雅は鮎を齧《かじ》った。 「卵を持っている鮎だ」  博雅は、言った。  皿の上には、鮎の頭と骨、胸鰭と背鰭と尾鰭しか残っていない。 「ところで、晴明よ」  博雅は、杯を手にしながら、晴明を見やった。 「何だ」 「さっきから、気になっていることがあるのだがな」 「どうしたのだ」 「そこに置いてある杯のことさ」  博雅は、ずっと空のまま床の上に置かれたみっつめの杯を眼で示した。 「そのことか」 「どうして、これがここに置いてあるのだ」 「実は、客が来ることになっている」 「客?」 「おまえが来ることになってから、使いのものが来てな。今夜、おれにどうしても会いたいというのさ」 「その客がか」 「そうだ。今夜は、先客があるのでと伝えたのだが、どうしても来たいというのでな、いらしていただくことにしたのだよ。杯はその方の分さ」 「誰なんだ、その客は?」 「それがな……」  晴明は、杯を唇に運び、ひと口酒を口に含んでから、何ともいえない表情をその口元に浮かべた。  困ったような、苦笑しているような表情が晴明の顔にある。 「珍らしいな、晴明。おまえがそういう表情をするというのは──」 「実は、困っている」 「困っている? おまえがか」 「そうだ」 「いったいどういう方なのだ」  博雅は、興味を覚えたように、声を大きくして身をのり出している。 「この方が、自らやって来るというのは、たいてい頼み事の筋でなあ。普段は、あまり自らは動かない方なのだよ」 「ほう」 「その頼み事というのが、いつもなかなかにややこしい」 「だから、誰なのだ、そのお方は?」 「いや、それならば、わざわざおれが今言うにはおよぶまい」 「何故だ」 「どうやら、そのお方がいらっしゃったようだからだ」  晴明が庭に眼をやると、月光の中に、ぼうっと緑色の燐光を帯びた、唐衣《からごろも》を着た女が立っていた。 「式神か、晴明」  それを見た博雅が言った。  細い顎の先を浅く引いてうなずき、 「蜜夜《みつよ》や、あの方がいらしたのだね」  晴明が言った。 「はい」  蜜夜と呼ばれた女がうなずいた。 「お通ししなさい」 「もう、いらっしゃっております」  蜜夜が言った時、その背後から姿を現わしたものがあった。 「おう……」  博雅は、それを見て小さく声をあげていた。  蜜夜の背後から、のっそりと姿を現わしたのは、大きな獣であった。 「虎だ!?」  博雅は、半分腰を浮かせていた。  まさしく、それは虎であったが、毛皮の色が違っていた。  虎であれば、黄色に黒の縞が入っていなければならないのだが、その虎には、どこにも縞模様が入っていなかったのである。  漆黒の虎であった。  ゆったりとした動作で、虎は女郎花《おみなえし》の群落を分け、足を止めた蜜夜の横を通り抜けてくる。  緑色の双つの瞳が、闇の中で燐光のように燃えていた。  微かに開いた口の中は、血のように赤く、長い牙に月光が当って、しらしらと光っている。  その黒虎の上に、人が乗っていた。  跨《また》がっているのではない。鞍も何も置かない虎の背に、その人物は横座りになり、晴明を見ながら、にこやかに微笑していたのである。  黒い水干を身に纏った男であった。 「慌てずともよい、博雅」  晴明は、自らの箸を、博雅の皿の上に伸ばした。  そこには、先ほど博雅が食べた鮎の残りが載っている。残りといっても、頭部と骨、背鰭と胸鰭、そして尾鰭である。  晴明は、箸の先で、横になっていた鮎の頭部を起こし、鮎が本来水中で泳ぐ姿勢になるように、頭と骨を整えてやった。  骨の上に背鰭を載せ、胴の左右に胸鰭を置く。  最後に、箸の先で尾鰭をつまんで、それがもともとあった場所──頭とは反対側の骨の先に置いた。  箸の先を鮎の頭部にあて、何やら低く短い呪を唱えると、晴明は、 「ふっ」  と鮎に向かって息を吹きかけた。  すると──  頭と骨だけのはずの鮎が、そのままの姿で、まるで皿の上に水が流れてでもいるように、ゆらりとその流れに身をのせて泳ぎ出したのである。  骨となった鮎が、背鰭や胸鰭、尾鰭を動かして、月光の中を、黒い虎とその上に座した人物の方に泳いでゆく。 「なんと──」  博雅が声をあげた。  骨となった鮎が近づいてゆくと、虎が、まるでその喉の奥に雷でも飼っているような、ごろごろという低い唸り声をあげた。  次の瞬間── 「轟《ごう》!」  と虎が吠えて、その鮎に向かって飛びかかっていた。  博雅が見ていたのは、そこまでであった。  鮎に向かって飛びかかったと見えた虎が、いきなり姿を消していたのである。  夜の庭には、ただ、蜜夜と黒い水干を着た男が、月光の中に立っているばかりであった。 「ちえっ」  黒い水干姿の男が、左手で首の後ろを掻きながら身をかがめ、右手を伸ばして草叢の中から、小さな生き物を抱きあげた。  それは、黒い、小さな猫であった。  子猫と思えるほど小さな猫であったが、その貌《かお》つきや、身体つきからうかがうと成獣であるらしい。  その子猫は、しきりと口を動かして、何かを食べている。  月明りの中でよく見れば、それは、鮎の骨であった。 「尾が、双つに割れているぞ」  博雅が言った。  確かに、その黒い猫の長い尾の先が双つに分かれている。 「猫又さ、博雅」  晴明が言った。 「猫又?」 「あの方がお使いになっている式神だよ」  晴明は、澄ました顔で言った。  黒い水干姿の男は、その黒猫を懐の中へ入れ、 「約束通りに来たぞ、晴明」  笑みを浮かべながら言った。 「ようこそおいでなされました。賀茂保憲殿──」  晴明もまた、その赤い紅を点《さ》したような唇に、あるかなしかの微笑を含みながら言った。      三  酒を飲んでいる。  今は、晴明と博雅に、保憲が加わって三人になっている。 「いや、お騒がせいたしましたなあ、博雅様──」  杯を口に運びながら、保憲が言う。  博雅も、賀茂保憲ならば、むろん顔は知っている。  さっきは、突然のことで、とっさに誰であるかわからなかっただけである。  賀茂保憲は、晴明より以前に、陰陽寮に勤めており、天文博士、陰陽博士、暦博士を歴任して、主計頭を経て、今は穀倉院別当の役職に就《つ》いている。  当然ながら、博雅の方が官位は上であり、保憲の口調は丁寧なものになっている。  しかし、博雅は博雅で、この人物に対する口調は丁寧であった。 「それにしても、驚きました。本物の虎が現われたのかと思いました」 「この晴明のところに来るのに、多少の趣向は考えておきたいと思いましてなあ」  保憲の口調は、屈託がない。 「いかがでございますか、その酒は?」  晴明が問えば、 「三輪の酒か。なかなかの味ぞ」  保憲がまた杯を口に運ぶ。  空になった保憲の杯に、瓶子で酒を注いでやりながら、 「ところで、保憲さま」  晴明は言った。 「うむ」 「本日の御用の趣きは?」  問われて、保憲は、杯を持たぬ方の手で頭を掻き、 「それがな、困ったことになった」  少しも困った素振りを見せずに言った。 「何でしょう?」 「首だ」  保憲は言った。 「首?」 「藤原為成《ふじわらのためなり》が、どうも妙な首に憑かれているらしいのさ」 「妙な首、ですか」 「まあ、聴けよ、晴明。こういうことだ」  そう言って、保憲は話し始めたのであった。      四  三日前──  賀茂保憲が、藤原為成に会ったのは、清涼殿《せいりようでん》でのことであった。  所用を済ませた保憲が、清涼殿に向かって渡殿《わたどの》を歩いていくと、前から藤原為成が歩いてきたというのである。  何やら頬がやつれ、顔色がよくない。  保憲が、眼の前にいるということにも、すぐには気づかない。  気づいたのは、 「為成様」  保憲に声をかけられてからであった。  為成は一瞬身をすくませて、声の主が保憲とわかると、ほっとしたように息を吐き、 「これは保憲殿、何か御用でも?」  そう言った。 「お貌のお相《そう》がすぐれませぬな」 「相が?」 「はい」  保憲はうなずいた。  保憲は、今でこそ穀倉院別当という役職にあるが、かつては陰陽寮にいたということは誰もが知っている。  陰陽寮から出たとはいえ、陰陽師の名門賀茂家の当主であり、現在も多くの弟子筋の人間が、陰陽寮にはいる。  安倍晴明も、若い頃は賀茂家の賀茂忠行に学んでいる。  その保憲に、 �相がすぐれぬ�  いきなりそう言われたのでは、為成も驚いてしまう。 「まるで、たった今、墓場から這い出てきた死人《しびと》のような相をしておいででござりまするぞ」  保憲が言うと、ふいに、為成の顔が崩れた。  泣きそうな顔になり、 「お、お願いがござります」  為成が言った。 「こ、このわたくしを助けて下されませ。このわたくしをお助け下されませ──」  必死の形相で、保憲にしがみついてきたというのである。  しかし、場所が場所である。  清涼殿に向かう渡殿の途中であり、そこですがりつかれてもどうすることもできない。  困る。 「人眼がござりまするぞ、為成様」  保憲が言った。  為成が保憲から離れた。  為成もさすがに取り乱した自分を恥じたのか、呼吸を整え、 「どこかで、お時間をいただけまするか、保憲殿──」  そう言った。 「どこかで?」 「実は、今、あることでたいへん怖ろしい目にあっているのです」 「怖ろしい目?」 「はい。そのことについて、ぜひとも相談にのっていただきたいのです」 「ほう」 「このことについては、あなた様のような方でないと、駄目な類の話なのです。保憲殿」 「わたしのような?」 「陰陽師──それもたいへん優れたお力をお持ちの方でないと」 「なれば、陰陽寮へゆかれるのがよいのではありませんか。安倍晴明があそこにおりますが──」 「それが、しばらく前に行ったのですが、お出かけ中とのことで、おられなかったのです」 「はて、宮中にもおりませぬか」 「うかがったところによりますと、源博雅殿と連れ立って、|逢坂山《おうさかやま》の蝉丸法師殿の所へ琵琶を聴きにいらっしゃったとか──」 「ははあ──」 「困り果てておりましたところへ、お声を掛けて下さったのが、保憲殿であったのです」 「そういうことでしたか」 「何とぞ、わたしの話を聴いていただけませぬか。ぜひ力になっていただきたいのです」  こう頼まれては、保憲も否とは言えない。 「お話、うかがいましょう」  保憲はうなずいた。      五 「まさか、こういうことになるのだったら、おれも声などかけはしなかったのだがな──」  保憲は、杯を口に運びながら言った。  胡座《あぐら》をかいた保憲の脚の間に、あの、黒い猫又が丸くなって眼を閉じている。  ひと口飲み、保憲が杯を置く。  保憲が、指を自分の杯に浸し、指先に付いた酒を猫又の鼻先に持ってゆくと、猫又は、薄眼を開いて緑色の瞳を覗かせ、ちろりと赤い舌を出して、それを舐める。  その指を下に滑らせ、猫又の喉を軽くくすぐると、猫又はまた気持ちよさそうに眼を閉じ、ごろごろと喉を鳴らした。 「しかし、為成殿の顔に死相が表われていたのでな、思わず声をかけてしまったのさ──」 「死相が……」 「うむ」 「───」 「おまえがいればよかったのだ、晴明──」 「すみませぬ」 「逢坂山の、蝉丸法師殿のところへ行っていたという話だったが……」 「博雅殿と一緒に、蝉丸殿の琵琶を聴きながら、酒《ささ》など飲んでおりました」 「ちぇ」  保憲が、猫又の喉をくすぐっていた指を持ちあげて、自分の鼻の頭をこりこりと掻いた。 「で、いらしたのですか」  晴明が訊いた。 「為成殿のことか」 「はい」 「行った」 「どちらでお話を?」 「車《くるま》さ」  保憲は、言った。      六  ふたりが話をしたのは、車寄せに停めてあった為成の車の中であった。  他人に話を聴かれたくないというので、そうなったのである。  為成の車の中にふたりで入り、簾《すだれ》を下ろして、人払いをした。  そこで、為成は話を始めたのであった。 「実は、しばらく前より通いはじめた女がおりまして……」  為成は、声を低くして言った。 「ほう、女でござりまするか」 「藤原長実《ふじわらのながざね》殿の、御娘でござりましてな。御名を青音《あおね》と申しまするが……」 「何かございましたか」 「何事もなく通っているうちはよかったのですが、ある夜に、さるお方と、青音殿のお屋敷の前で、鉢合わせをしてしまいました」 「ほほう」 「その相手というのが、橘景清《たちばなのかげきよ》殿──」 「恋のふた道松葉の末かけてということですね」 「まあ、そういうことです」 「で?」 「しかし、これが互いに譲れませぬ。わたしも譲らない。景清殿も譲らない。青音姫は青音姫で、どちらを選ぶか迷うておいでじゃ。なればいずれ日をあらためて、青音姫に、わたしか景清殿かを選んでいただこうという話になりました」 「それで──」 「後日、姫から文が届きました」 「ほう、文が──」 「夜に、一条の六角堂に来て欲しいと書かれてありました」 「一条の六角堂と言えば、開かずの六角堂ということですね」 「はい。先の天皇の時に建てられた堂で、観音菩薩の像を安置する予定であったのが、像を彫っていた仏師が死んで、結局、何も安置されずに、そのままになっている堂のことです」  もともと、大きな堂ではない。  入口から向かいの壁まで、両手を前に出して十歩も歩けば、もう指先が壁に触れてしまう。  像が入れられぬまま、放ったらかしにされ、ぼろぼろの姿を風雨にさらしている。  使う者もおらず、めったに戸が開けられることもないから、開かずの六角堂と呼ばれている。 「そこへ来いと?」 「はい。ただ独りでとしたためられておりました」 「それで、出かけてゆかれたのですね」 「はい」 「それが、いつのことでしたか」 「昨夜のことでございます」  為成は語った。  いつの間にか、保憲に対する為成の言葉遣いが、さらに丁寧なものになっている。すっかり保憲に頼りきっているらしい。  為成が屋敷を出たのは夜であった。  牛車《ぎつしや》で、六角堂の前まで出かけてゆき、そこで為成は、供の者たちに明朝むかえに来るよう申しつけて自分の牛車を帰してしまった。  六角堂の中には灯りがひとつふたつ、点っているらしい。  為成が六角堂に入ってゆくと、そこに、青音姫と橘景清が座していた。 「なんと、わたしだけではなかったのですか──」  為成が言うと、 「為成殿、それならばわたしが同じ言葉をあなたに申しあげたいところです」  景清が言った。  為成は、景清の言葉など耳に入らぬかのように青音姫に向きなおり、 「ところで、わざわざかような場所までお呼びだてとは、今夜はどのような趣向なのですか、姫よ──」  そう問うた。  おそらく昼のうちに運ばせたのであろう、床の上に繧繝縁《うんげんべり》が敷いてあり、青音姫はその上に座して静かに微笑していた。  灯火がふたつ。  床の上には、瓶子《へいし》と杯の用意まである。  杯はみっつ。  他には、従者も誰もいない。  姫も、景清も、従者たちを帰してしまったのであろう。  このようなところを、盗賊にでも襲われたらひとたまりもない。わざわざこういった場所に、このようなかたちで人を呼ぶとはまことに酔狂な姫である。  しかし──  そこにこそ、この自分は──おそらくは景清も魅かれているのだろうと為成は思っている。  考えてみるに、まだ、姫の許《もと》に通う男は自分たちの他にもいるのであろう。  たまたま、自分と景清が鉢合わせをしてしまったのだ。それもことによったら、この姫がわざと鉢合わせをするように仕組んだことであるのかもしれない。  今夜のこの趣向のために──  自分も景清も、その姫の趣向につきあって、ひとりの姫を取りあうふたりの男という役割を演じているのではないか。少なくとも、自分はそう考えている。  だから、姫と景清にわざわざわかるように�趣向�という言葉を自分は口にしたのである。  その趣向の結果、姫が自分を選ぶというのであればそれはそれで望むところであった。  いずれ、この晩のことは、宮中に出入りする者たちの知るところとなり、様々に噂されることであろう。  その噂の中に出てくる人物としては、できるだけよい役割を演じたいとも為成は思っている。  もし、この趣向は姫が始めから意図したものであるなら、自分と景清は姫から選ばれた者たちである。  それを思うだけでも、晴れがましい。 「おう、それよそれ」  景清もあらためてうなずいた。 「いったい今夜は、どういうお楽しみを用意されておいでなのかな」  為成と景清に問われ、 「今夜は、満月だわ」  姫は、艶やかに微笑しながら言った。 「満月?」  訊いたのは、為成である。 「灯りを持たずとも、夜道を歩けるということよ」 「それは、つまり、これから夜道を歩くことになるということですか」  景清が言った。  それには答えず、 「どうぞ」  と姫はふたりに杯を勧めた。  為成と景清が杯を持つと、瓶子を手にとって、姫は、ふたつの杯に交互に酒を注いだ。  ふたりが、それを口に運ぶのを眺めてから、 「ここから、船岡山にゆく途中に首塚がござりますが、御存じでいらっしゃいますか」  姫はそう言った。 「もちろん」 「存じております」  ふたりはうなずいた。  この首塚には、五つの首が埋められている。  二十年ほど前──藤原|純友《すみとも》の乱が起こり、これが小野好古らによって鎮圧され、純友が誅殺されたのが、天慶四年のことである。  しかし、その残党が盗賊となって、伊予、讃岐《さぬき》、阿波、備中、備後《びんご》──都の近くまでをも荒すことしきりとなり、追捕使《ついぶし》たちの手によって首謀者たち五人が捕えられ、都まで連れてこられた。  死罪。  五人を首まで鴨川の河原に埋め、十日間、食事も与えずにさらしものにした。  毎日眼の前に食べ物は運んでやるのだが、見せるだけで食わせない。眼の前の土の上に置かれた食いものから匂いは届いてくるが、口には入らない。 「何とぞひと口……」 「たとえその後打ち首となろうと、それを食わせて下され」 「ひもじや」 「ひもじや」  涙ながらに訴えても、食事は与えられなかった。  彼らの眼の前で、犬や烏《からす》がその喰い物を食べる。  犬は、罪人たちの顔の肉を齧《かじ》り、烏は目玉を突《つつ》く。  十日間、罪人たちが生きていたのが不思議なくらいであった。  十日の間に、三度ほど雨が降り、それが彼らの喉をわずかに潤したのみであった。もしも雨が降らねば、七日で死んでいたろう。  十日目に掘り出され、そこで首を刎《は》ねられた。  さすがに、祟《たた》られるのを恐れ、 「ほれ、飯じゃ」  罪人たちの前に、拳ほどの大きさの石を誰かが放り投げた。  それを飯と思って首を突き出した時に、次々にその首が落とされたというのである。  切られた首は、皆、その石の方に向かって転がり、首のひとつはなんとその石に噛みついて、眼を開いたまま果てたという。  首を切る役人たちに意識を向けさせずに、その石に罪人たちの意識を向けさせた。これで、罪人たちも、首を切った者たちの顔は覚えてはおらず、祟ることもできまいと役人たちは考えたのである。  彼らを埋め、塚を作り、その上にその石を載せた。  しかし、夜にそこを通りかかると、今でも塚の中から声が聴こえるという。 「ひもじや……」 「ひもじや……」 「何か、食べ物を恵んでくだされ」 「そなたの肉でよいから、啖《くら》わせてくだされ……」 「ひもじや……」 「ひもじや……」 「おう……」 「おう……」  このような声が、ゆく人の後ろから追いかけてくるというのである。  噂だ。  為成も景清も、実際にその声を耳にしたわけではない。 「その首塚がどうかいたしましたか」  景清が訊いた。 「おふたりに、今晩、その首塚まで行ってきて欲しいのです」  微笑しながら、こともなげに青音は言ったのであった。      七 「それはまるで、『竹取の翁《おきな》』の物語のような話ではありませんか」  そう言ったのは博雅であった。  保憲の話を聴いているうちに、思わず博雅の口からそういう言葉が洩れてしまったのである。  青音姫が、為成と景清のために用意した趣向というのは、次のようなものであった。  まず、為成か景清のうちどちらかひとりが、先に六角堂を出る。夜道を歩いて首塚まで行って、またここまでもどってくる。行かずに途中で引き返したのではなく、ちゃんと行ってきたということの証拠として、塚の上に置いてある、大人の握り拳ほどの大きさの石をここまで持ち帰ってこなければならないという。  次は、二番手となった人間が、その石を持って出かけてゆき、今度は石を塚の上にもどしてくる。 「本当にその石が塚の上にもどされたかどうかは、翌朝に三人で塚を見に行ってくればいいわ」  このように青音姫が言ったというのである。 「青音は、これができた方のものになるわ」 「もしも、ふたりともできたら、どうするおつもりですか」  訊いたのは、為成であった。 「あら、その時はまた、別の趣向を考えることにすればよろしいわ」  青音姫は言った。  これに対して、博雅が、『竹取の翁』の物語のようだと言ったのである。 『竹取の翁』の物語。  これは、『竹取物語』──『かぐや姫』の名で知られる物語である。  月からやってきたかぐや姫に、五人の貴公子たちが求婚をする。  この男たちに対して、かぐや姫は幾つもの難題を用意した。  石作皇子には仏の御石の鉢を、車持《くらもち》皇子には蓬莱《ほうらい》の玉の枝を、右大臣阿部のみうしには火鼠の皮衣を、大納言大伴のみゆきには龍の首の五色の玉を、中納言石上のまろたりには燕《つばくらめ》の子安貝を、それぞれ見つけてくるように、かぐや姫は申し入れるのである。 「わたくしはそれを見つけてきた方の妻になりましょう──」  晴明と博雅が、都の空気を自由に呼吸していたこの頃、『竹取の翁』の物語は、漢籍と並んで、宮中における一般教養書のひとつである。 「青音殿らしいと言えば、青音殿らしい趣向ですね」  晴明が言った。 「で、おふたりはゆかれたのですか?」  博雅が訊ねた。 「ああ、行った」  猫又の喉のあたりを、右手の人差し指で撫でながら、保憲は言った。      八  順番は、籤《くじ》で決めた。  用意してきた小石を青音姫が一方の手に握り、どちらの手の中にその小石が握られているかをふたりで答え、当てた方が先にゆくことにした。  当てたのは、景清であった。  まず、先に出かけて行ったのが景清である。  為成は、六角堂で、青音姫と一緒に酒を飲みながら待っていたのだが、なかなか景清はもどってこない。  もどってきてもよい時間を、一刻過ぎてもまだもどって来ない。途中、山道になるとはいえ、わかり難い道ではない。  蔀戸《しとみど》を上げて外を見てみれば、うっとりと溜め息の出るような美しい満月が空にかかっている。この月明りがあれば、灯り無しでも充分外を歩くことができる。  途中、鬼にでも食われたか、盗賊にでも会ったか。  あるいは、首塚の中にでも、罪人の霊に引き込まれたか。  それとも── 「怖ろしくなって逃げたか」  為成は、杯を手にしたままつぶやいた。  逃げたのだとしても、このままでは為成は景清に勝てない。勝つためには、自ら首塚まで出かけてゆき、件の石をここまで持ってこなければならない。  しかし、自分が出かけてゆけば、この青音姫を、ひとりここへ残すことになる。いくら自ら言い出したこととはいえ、姫もそれは怖がるであろう。  ことによったら、行かないでくれと止めるかもしれない。  もしも姫自らが止めるのであれば、もちろん行く必要がなくなり、この勝負は闘わずして為成の勝ちということになる。  いや、自分がゆくと言えば、必ず姫は行かないでくれと止めるに違いない。  そう確信した為成は、 「姫よ」  杯を置いて声をかけた。 「景清の帰りが遅いので、わたしがちょっと様子を見に行ってまいりましょう」 「あら、それはいいわね」  青音姫は、あっさりと言った。 「わたしも今、為成様に、石を取りに行きがてら、様子を見に行ってきて下さいとお願いしようと思っていたところだったのよ。ちょうどよかったわ」  こう言われては、為成も後へは退《ひ》けなくなってしまった。 「件の石を持ってくれば、この勝負、わたしの勝ちと考えてよろしいのですね」 「もちろん」  姫はうなずいた。      九  為成は歩いている。  夜の道だ。  そろそろ船岡山に向かって、道が登りかけている。月光が明るいため、思った以上に歩き易い。  しかし、いくら歩き易いとはいえ、夜に首塚までゆくというのは、やはり気分のよいものではない。  怖い。  景清の奴め── 「逃げたな」  為成はつぶやいた。  近くに牛車か何かを停めてあったのだろう。  それを呼び寄せて、車に乗って帰ってしまったのかもしれない。いや、そうに違いない。  まさか、これも趣向の一部ではないだろうな──  そうも思ってみる。  景清と姫とが申し合わせて、何かをたくらんでいるのかもしれない。しかし、そうだとしても、それを見破る術《すべ》が自分にはない。  ともかく、ゆくしかなかった。  登りの道になり、道の左右からは、樹々の梢がかぶさって、月光を半分ふさいでいる。  暗い。  木の根や石に、何度もつまずいた。  何度目かにつまずいて、片手を土の上に突いた。  ひょいと視線をその先へ向けると、何かが見えた。  人だ。  人が倒れている。  立ちあがり、近づいてよくよく見れば、はたしてそれは人であり、しかも、それは屍体であった。  着ているものに見覚えがあった。 「景清殿……」  為成はつぶやいていた。  そこに倒れているのは、確かに、しばらく前に六角堂を出て行った橘景清である。  しかし、手で触れれば、景清の着ているものは、何かでびっしょりと濡れているようであった。それに触れた指先がぬるぬるしている。  どうにも生臭い匂いもする。  血であった。  為成は、ぎょっとなった。  さらによく見れば、その屍体には首がなかったのである。  為成の手が触れている衣《きぬ》も、やけに薄く平べったい。  ずぶずぶに濡れて手応えがない。  しかも、堅い手触りもある。  中身がない!?  景清の屍体は、ほとんど骨だけとなっていたのであった。 「あなや!」  叫んで、為成は立ちあがろうとした。  しかし、立ちあがれない。  腰が抜けてしまっているのである。  ふたつの膝と、二本の手で、獣のように這って逃げようとした。何から逃げようとしているのかは、自分でもわからなかった。とにかく、その場所から離れたかった。  這ううちに、右手にぶつかるものがあった。  思わずそれを掴《つか》んでみれば、肘から先の腕であった。  景清の右腕だった。 「ひいい」  叫んで、為成はそれを放り出そうとしたが、自分の手の指が強くその腕を掴んでいて離れない。  重い。  どうやら、景清の右手が何かを掴んでいるようである。見れば、それは、大人の拳ほどの大きさの石であった。  ああ、これが、例の石か──  為成は思った。  では、景清は首塚まで行ったのか。  そして、帰る途中でこのような目にあったのか。  為成は、やっとの思いで起きあがった。  がくがくとする膝の震えを押さえつけるようにして歩き出した。本当は走り出したいのだが、脚がもつれて、とても走ることはできそうになかった。  いつの間にか、左手で件の石を掴んでいた。  それを持って、歩く。  一刻も早く、向こうへ。  一刻も早く、この場から遠くへ。  景清の手も石を放さないので、自然に、為成が掴んだ石の下に、景清の腕がぶら下がることとなった。  腕をぶら下げて歩いている。  歩いていても、膝が折れ、腰が沈んでそこにへたり込みそうになる。  それでも、なんとか歩いた。  為成は、自分が、景清の腕をぶら下げて歩いていることに、ほとんど気づいていない。  この石を青音姫のもとまで持ってゆかねば──というところで、思考が停止してしまっているのである。  歩いてゆく。  月光が注いでいる。  為成は、その眼から涙を流していた。  と──  音が聴こえてくる。  小さな音だ。  堅いものと、堅いものがぶつかる音。  かつん、  こつん、  かつん、  ひとつふたつではない。  幾つかの同様の音が聴こえている。  かつん、  かつん、  こつん、  後方からであった。  その音が、後方から近づいてくる。  近づくにつれて、その音が大きくなってくる。  こつん、  かつん、  かち、  かち、  かち、  怖い。  怖いが、後ろを振り返ることができない。  声をあげて走り出そうとした時、ぐい、と左手が横の方へ引っ張られた。  大きな魚を釣りあげた時のような、震えが左手に伝わってきた。  ひょいと、自分の左手に眼を移し、為成は大きな悲鳴をあげていた。  髪の毛を振り乱したふたつの生首が、為成がぶら下げた景清の右腕にかぶりついて、犬が、肉を噛みちぎろうとしているかのように、頭を左右に振っているのである。  たまらず、手を放した。  景清の腕を放り投げた。 「あわあっ!」  どうして、腕をここまで持ってきてしまったのか。  どうして、途中で捨てなかったのか。  もう、石などどうでもよかった。  青音姫のことも、念頭にない。 「ひもじや……」 「ひもじや……」  声が聴こえる。  低い、不気味な声だ。  かつん、  こつん、  かち、  かち、  首が歯を噛み鳴らす音であった。 「よくも、我らの喰いものを奪って逃げようとしたな」 「二十年ぶりの喰いものぞ」  眼をあげれば、月光の中に、幾つもの首が浮いて、為成を睨んでいる。 「為成……」 「為成……」  声が聴こえる。  知っている声だ。  見やれば、首の中に、景清の首があり、その眼が恨めしそうに為成を見ていた。 「己れだけ、石を持ち帰り、青音姫とうまくやろうというのか、為成……」  そこから先を、為成は覚えてない。 「わっ」  叫んで走り出していた。  走りに走って、ようやく六角堂までたどりつき、 「姫、姫よ、姫よ、姫よ」  為成は戸を閉め、あげていた蔀《しとみ》もばたばたと下ろしはじめた。 「まあ、為成さまは、何をそんなに慌てていらっしゃるの」 「景清殿は、首に喰われたぞ」  からからに乾いた口で、為成は言った。 「あら──」  と微笑した姫を見て、為成の首筋の毛がそそけ立った。  座している青音姫の身体の向いている方向と、首が向いている方向が違うのである。  身体は向こうを向いているのに、首がこちらを向いている。首をねじって顔をこちらに向けているのなら、肩や背が、多少はねじれているものなのだが、首だけがこちらを向いている。  そこで、ようやく、為成は気がついた。  座した姫の周囲の床に、輪になって広がっているものを。  血であった。  そして、床一面に、点々と赤いぐちゃぐちゃしたものが落ちているのにも気がついた。  人の肉であった。 「どうしたの?」  姫の首が、灯火の明りに照らされて、ふわりと宙に浮きあがった。  姫の着ていた唐衣が、繧繝縁の上に、ひとかたまりになってわだかまった。 「わ」  ひと声叫んで、為成は走り出していた。  宙に浮いた姫の首に向かって。  姫の首をつかむと、まだ下ろしていなかった蔀戸《しとみど》に向かって走り寄った。 「これ、為成様」  声をあげている姫の首を、外に向かって放り投げると、蔀戸を閉めた。  投げる時に、右手の指を一本噛み切られたが、それよりも首を外へ放り出せたことの方が嬉しかった。  ほっとする間もなく、  どん、  と蔀戸に重いものがぶつかってきた。  どん、  ごつん、  ごつん、  首が、蔀戸にぶつかってきているのである。 「これ、為成殿、ここを開けて下され」  声がする。 「そなたの肉を喰わせて下され」 「ひもじや」 「ひもじや」  生きた心地もなく、蔀戸の隙き間から外を見れば、月光に照らされながら、宙を幾つもの首が舞っている。  その首が、ぶつかってくる。  どん、  ごつん、  どん、  ごつん、 「為成殿……」 「為成殿……」 「肉を喰わせて下され」 「喰わせて下され」  ごつん、  どん、  為成は、涙を流しながら念仏した。  幸いにも、首に、戸や蔀戸を開ける力はなく、やがて、東の空がしらしらと明るくなってきた。 「おう、夜が明けてしまうぞ」 「おう」 「おう」 「なあに、為成の家は、わかっている」  景清の声がした。 「わかっているわ」  青音姫の声もする。 「今晩、またゆこう」 「そうじゃ、ゆこう」 「肉を喰いにゆこう」 「うむ」 「うむ」  そして、外が静かになった。  六角堂に陽が差してきた時、為成は、むかえの車を待たずに、走って逃げ出していた。      十 「で、その日の昼に、清涼殿の渡殿で、為成殿とおれが出会ったというわけなのさ」  保憲が言った。 「なるほど」  晴明がうなずいた。 「で、この三晩の間、その首から為成殿をお守りしたのだがな──」 「どうなされました?」 「いや、どうにも面倒でなあ、晴明よ──」 「面倒?」 「首から身を守ってやるだけなら、屋敷のほどよきところに、幾つか札を置いて、蔀を下げておけばそれでこと足りる」 「今夜は?」 「札を四枚ほど置いてきた。多少は怖い思いをするであろうが、まあ、蔀を開けねば大丈夫であろうよ。しかし──」  保憲は、言葉を止めて、晴明を見やった。 「毎晩、そうしているわけにもゆくまい」 「保憲様なれば、もう、その首たちが二度と現われぬようにすることも、おできになれましょうに──」 「できるさ」  保憲はうなずいた。 「どうすればいいか、幾つか思いあたる方法もある。できるかできぬかであれば、それもできるであろうよ。が、しかし──」 「しかし?」 「わかっているだろう、晴明。おれは、面倒なことはからきし駄目でな。そういうやり方を思いついただけで、疲れてしまうのさ。地べたに這いつくばって何かを捜したり、あちらこちらへ出かけて行って、よろしく話をつけてきたりということが苦手なのさ」 「はい」  晴明が苦笑する。 「首塚と六角堂へ人をやって、景清殿と青音殿の屍体を見つけ、それを彼らの屋敷に運ばせただけで、もうこれを誰かにあずけたくなってしまってなあ。今は、伏せてあるが、いずれ、景清殿、青音殿がどのような死に方をしたかは、人の知るところとなろう」 「でしょうね」 「それまでに、かたをつけておきたいのさ」 「かたを?」 「おれと代ってくれぬか、晴明──」 「代るのですか」 「おう。もとはと言えば、これはおまえのところへゆくはずであった仕事ぞ。それを、このおれが、途中までおさめてやったのだ。後はおまえがやれ──」 「わたしがですか」 「そうだ」  澄ました顔で、保憲が杯を口に運ぶ。 「首塚の方は、どうなっておりましたか?」  晴明が訊いた。 「おれは行っていないのだが、話によれば首が五つ、きれいに塚の下の土中より抜け出しておったそうだ」 「上にのせていた石ですが、あれには確か、何か書いてあったのではありませんか」 「�封・霊�と二文字書かれていたそうだ。今はその字も消えてしまっているがな──」 「それは、確か、二十年前、浄蔵上人がお書きになられたのではありませんでしたか」 「その通りだ。浄蔵殿は、将門《まさかど》の時も、純友のおりも、降伏《ごうぶく》のため大威徳法を修されたお方だからな」 「今は、東山の雲居寺にいらっしゃるのでしたね」 「なんだ、晴明、それだけわかっておれば、あとは皆、おまえがやれるではないか」 「やれることはやれますが──」  晴明は苦笑した。 「どうした?」 「件の石は、今、どちらにございますか」  言われて、保憲は、右手に持っていた杯を床に置き、空いた手を懐に差し込んだ。  出てきた時、その手に大人の拳ほどの石が握られていた。 「ここにある」 「ここまで御用意がされているとあっては、やらぬわけにはゆきませんね」 「頼む」  そう言って、保憲はまた杯に手を伸ばした。      十一 「あれでよいか」  言ったのは博雅であった。  藤原為成の屋敷であった。  簀子《すのこ》の上に、博雅の家人《けにん》である実忠《さねただ》が立ち、軒下から、紐で一頭の犬の屍骸《しがい》を逆さにぶら下げているところであった。  洛中を歩いて、実忠が見つけてきた屍骸である。 「うむ」  晴明がうなずいた。  凄い臭いが、庭に立っている晴明と博雅のところまで届いてくる。  葱《ねぎ》を潰した汁を、たっぷりと犬の屍骸にかけてあるのである。 「これで、あとは夜まで待てばよい」  晴明は言った。      十二  夜になった。  晴明と博雅は、闇の中に静かに座している。  蔀をすべて下ろし、灯りも点けていない。  藤原為成の呼吸だけが荒い。  実忠は、犬をぶら下げた軒下に近い場所に膝立ちになって、蔀戸に耳を押しつけている。 「何か、聴こえます」  実忠が言った。  それからほどなく、それは、博雅の耳にも届いてきた。  かつん、  かつん、  という音。  かち、  かち、  という歯と歯を噛み鳴らす音。  その音が近づいてくる。 「ひもじや……」 「ひもじや……」 「為成殿、今夜も、札を張って、蔀戸を締めきっておいでか」  声が聴こえてきた。  そのうちに、 「おう、ここに、肉があるぞ」 「犬の肉じゃ」 「肉じゃ」  ひしひしと、何かを食べるような音が響いてきた。  すぐに、それが、がつがつと、獣が獲物を貪り啖うような音になった。 「見ろ、博雅──」  晴明に言われて、蔀戸の隙き間から博雅が覗くと、宙を舞う七つの首が、軒下からぶら下げられた犬の屍骸に喰らいつき、その肉を月光の中で喰っているのが見える。 「あさましや……」  博雅はつぶやいた。  首が、犬の屍骸に喰らいつき、肉を食べるそばから、その食べた肉が、首のすぐ下から土の上や簀子の上に落ちていってしまうのである。  六角堂の床に落ちていた肉も、このように、首たちにいったん啖われた青音姫の肉だったのであろう。  これでは、食べた肉が腹にたまりようがない。 「おう、ひもじや」 「ひもじや」 「いくら啖うても、腹がくちくならぬ」  首たちの声が聴こえる。  そのうちに、不気味な音が聴こえてきた。  がりん、  がつん、  ごり、  ごり、  犬の骨を齧る音である。  やがて、そういう音も聴こえなくなり、次は、屋敷のあちこちに首がぶつかってくる音が聴こえてきた。 「開けて下され」 「肉を啖わせて下され」 「為成殿……」 「為成殿……」  それが、ひと晩続いた。  朝が近くなる頃、ふいにあたりが静かになった。  朝日の昇るのと共に外へ出ると、簀子と言わず、土の上と言わず、軒下一面に、いったん啖われた犬の肉や骨が散らばって、凄まじいありさまとなっていた。 「さて、ゆこうか」  晴明が、博雅と、実忠をうながした。  実忠は、肩に鍬《くわ》を担いでいる。  三人の前を、一頭の白い犬が、地面や空気の臭いを嗅ぎながら進んでゆく。 「葱の臭いを追っているのさ」  晴明が言った。  やがて、犬は、為成の屋敷の、離れの床下に潜り込んで吠え始めた。 「行ってくれ、実忠」  晴明が言うと、実忠が、鍬を持って床下に這い込んだ。  しばらく、鍬で土を掘る音が聴こえていたが、ほどなく、 「見つけました」  実忠の声が聴こえてきた。  床下の土の中から、七つの首が掘り出された。  五つは古く、ふたつは新しかった。  新しいものは、青音姫と景清の首であった。 「これで、済んだ」  晴明は、小さくつぶやいた。 「いや、なんとも、たまらぬものであったなあ」  博雅が、ほっとしたように溜めていた息を吐き出した。      十三  青音姫と景清の首は、一緒に葬られた。  五つの首は、もとの首塚に埋められ、浄蔵上人が新しく、�封・霊�の文字を書いた石が、その上に置かれた。  たくさんの食い物を、首と共に埋めてやったためか、以来、夜に首塚の近くを通る者があっても、あやしの声は聴かれなくなった。      十四  ほろほろと酒を飲んでいる。  晴明の屋敷の簀子の上であった。  そこに、晴明、博雅、保憲の三人が座している。  保憲は、しばらく前の夜にそうしていたように、胡座をかいた脚の間に、丸くなって眠っている猫又を抱えている。  保憲が、簀子の上に置かれた杯に指を伸ばし、指先を酒に浸してから猫の鼻先まで持ってゆくと、眠っていたと見えた猫が薄眼を開け、赤い舌先を伸ばして、それをちろりと舐める。 「いや、晴明よ。今度《こたび》の一件については、なかなか見事な収めかたであった……」  猫又に酒を飲ませながら、保憲が言う。 「いえ、御膳立《おぜんだて》は全て、保憲様がすませておいて下さったからですよ」  微笑を含んだ赤い唇で、晴明が言う。 「しかし、あれはなんともあさましい光景であったなあ……」  しみじみとした口調で、博雅が言った。  為成の屋敷で、蔀の隙き間から覗いた、首たちが犬の屍体を食べていた光景について言っているらしい。 「喰べても喰べても、喉のあたりから、口にしたものが皆、外へこぼれ落ちてしまう。腹がくちくならない。成仏しそこねたあやかしとはいえ、人の本性とは、結局あのようなものなのかもしれぬなあ」 「ほう」 「あの、あさましい姿が人の本性と思えば、あれはあれで、妙にまた哀しく、そして愛しい光景でもあったような気がするのだよ」  博雅は、その光景を思い出しているかのように、言葉を切り、庭に視線を放った。  夜の庭である。  装いを、すっかり秋に変えている。  いずれやってくる冬を待つばかりの庭が、月光の中で身じろぎもせずに押し黙っている。 「少し、笛を吹かせてくれぬか」  博雅は、そう言って、懐から葉双《はふたつ》──鬼からもらった笛を取り出した。  静かにその笛を唇にあて、吹いた。  美しい、光る帯のような旋律が、その笛から滑り出てきた。  その笛の音が、月光の中に伸び、秋の庭に広がってゆく。  月光と笛の音が、秋の庭で溶ける。  どこからが笛の音で、どこからが月光であるかがわからない。  簀子の上に座している博雅の気配──肉体そのものまでが、天地の間に溶け出してゆくようであった。 「おう……」  保憲が賛嘆の声を洩らした。 「これが、博雅殿の笛か……」  囁くような声であった。  晴明は、声もあげずに、その笛の音が、自分の肉体の中を通り、天地の間に溶けてゆくのに耳を澄ませている。  博雅は、いつ終るともなく笛を吹き続けた。 [#改ページ]   むしめづる姫      一  夜気の中に、甘い香りが漂っている。  藤の花の匂いである。  庭の奥に、藤の花が咲いているのである。  松の老木に、藤の蔓《つる》が巻きついて、子供ならひと抱えもありそうな重い房が、幾つも下がっている。  白い藤と、紫の藤であった。  ふた色の藤は、闇の中で青い月光を浴び、濡れたようにしんしんと淡い光を放っている。いったん房に染み込んだ月光が、発酵《はつこう》し、甘やかな匂いとなって、大気の中に滲《にじ》み出てきているようであった。 「まるで、月の光が匂うようだなあ、晴明よ──」  源博雅は、心の中に浮かんだ想いをそのまま口にした。  晴明の屋敷の簀子《すのこ》の上。  博雅は、晴明と向かいあって、酒を飲んでいる。  晴明が纏《まと》っているのは、涼しげな白い狩衣である。  晴明は、紅い唇に、いつまでも含んだ酒の香《か》がそこに残っているような笑みを浮かべている。  闇の中に、蛍がひとつ、ふたつ。  蛍の火が、すうっと宙を動いて消え、動いた方向を眼で追うと、その視線からそれた別の場所に、ふっとまた蛍の灯《ひ》が点る。  唐《から》単衣《ごろも》を着たふたりの女が、晴明と博雅の横に座して、ふたりの杯が空になると、無言で酒を注ぐ。  蜜虫。  蜜夜。  晴明は、このふたりの式神を、そういう名前で呼んでいる。  晴明と博雅が使用しているのは、胡の国から渡ってきた、瑠璃《るり》の杯であった。  酒が満たされたその杯を指先に持って、軒より向こうに差し出せば、月光を受けて、新緑の木の葉を、下から透かし見るような色あいで光る。と言っても月明りであるので、深い青みがかった色になる。 「瑠璃というのは、こうしてみると、月の光を捕える檻《おり》のようなものなのだなあ──」  博雅は、杯をかざしながら言った。  博雅の顔が、ほんのりと赤い。  ほろほろと飲み、ほろほろと酔っている。  晴明は、片膝を立て、心地よい音楽を聴くように、博雅の声に耳を傾けている。 「いや、檻ではないな。自らの中に光を宿して棲まわせることから言えば、入れもの、いや、家のようなものか──」  博雅は、自問自答している。 「ところで博雅──」  晴明が、博雅に声をかけ、酒を口に含んだ。 「──そのことだがな」  晴明が、杯を簀子の上に置いた。  それに、蜜虫が酒を注ぐ。 「何のことだ?」 「捕えて、入れることさ」 「捕えて入れる?」 「うむ」 「わからん、どういうことなのだ」 「橘実之《たちばなのさねゆき》殿の娘のことは知っているか」 「それは、四条大路にお住まいのあの露子姫のことか」 「そうだ」 「ならば、知っている」 「会ったことは?」 「ない」 「しかし、噂は耳にしていよう」 「ああ」 「むしを飼《こ》うておられるそうな」 「らしいな。色々なむしを、童子たちに捕えさせては、それを特別に作らせた籠に入れて飼っているらしい」 「おもしろそうなお方だ」 「おもしろそうとは?」 「眉も抜かず、歯も染めず、男がいても平気で御簾《みす》をあげて、お顔をお出しになるらしい」 「そうだな。宮中の噂好きの人間たちの中には、露子姫のことを、むし姫などと呼ぶ者がいるよ」 「なるほど、むし姫か──」  晴明はうなずき、酒の満たされた杯を手に取って、それを口に運んだ。 「ああ、その姫だが、こんなことも言っていたことがあるらしい──」  博雅が、杯を手にしながら言った。 「どんなことだ」 「鬼と女とは人に見えぬぞよき……」 「ほう」  晴明が感心したような声をあげた。 「珍らしいな晴明、おまえがそういう顔をするとは」 「なかなか、頭のよいお方のようだ」 「それで、橘実之殿も、頭を痛めているらしい」 「何故だ」 「色々と作法や書を教えて、宮中に出入りもできるようにとお考えのようなのだが、姫にはその気がないらしい」 「ふむ」 「窮屈なところはいやだと言っているらしいな」 「宮中が、窮屈か──」 「うむ」 「その通りではないか」  晴明が微笑した。      二  橘実之の娘──露子姫は、幼い頃から、普通の子供とは違っていた。  いや、それは宮中に仕えるような人物を親に持つ子供としてはという意味である。露子の場合は、むしろ、子供としてはあたりまえの子供であったと考えるべきであろう。  露子が特別であったのは、成長してからも、そういう子供としてはあたりまえのものを持ち続けていたところである。  ものを見るのが、好きであった。  ものに触れるのが、好きであった。  木や石や花や水や雲や空──そういうものをいつまでも不思議そうな眼で眺めることが好きであった。  雨が降れば、簀子の上から、庭の水溜りに、天から落ちてくる雨滴が輪を作るのを、一日中でも眺めていた。  外で、珍らしい草や花を見つけては、屋敷に持ち帰り、庭に植えた。  初めて見る草や鳥や虫は、必ずその名前を訊ねた。 「あれはなあに」  その問いに答が得られなければ、人をやってその名を調べさせた。それでもわからない時は、自分でその草や鳥や虫たちに名前をつけた。  絵師を呼び、草や花や鳥や虫たちの絵を描かせ、それにその名を書いた。  長じてからは、自ら絵筆を握り、初めて見る生き物たちを描き、名を付けるようになった。  露子が、強い興味を持ったのは、烏毛虫《かわむし》である。  烏毛虫──つまり、毛虫のことである。  これを捕えてきては、籠箱《こばこ》に入れ、飼った。  初めは、よく烏毛虫を死なせたが、どの烏毛虫がどういう植物の葉を喰べるのかがわかってくると、めったに烏毛虫は死なぬようになった。  籠箱は、底が板になっており、それに四角い木の枠をのせ周囲四面と上面に、紗《しや》か絽《ろ》を張ったものである。  その中に烏毛虫を入れ、喰べる草や葉を入れてやれば、紗や絽を透かして烏毛虫が草や葉を喰《は》む様を見ることができた。  時には、籠箱を開けて、中から烏毛虫を取り出し、それを自らの手の上に乗せて、飽《あ》かずに眺めていたりする。  姫に仕えている女房たちには、その様子が気味悪くてたまらない。 「烏毛虫のどこが、そんなに楽しいのですか?」  女房のひとりが問うと、 「あら、おもしろいからおもしろいのよ」  露子姫はこのように答える。 「今は、どこにも翼がないのに、ここから羽根が生え、空を飛ぶようになるのよ。そこが不思議なの。不思議だからおもしろいのよ。いったい何が、どういう御業《みわざ》が働いて、これがそんな風になるのか、そんなことを考えていたら、一日中だって飽きないわ」 「しかし、それは、まだ蝶ではありません。二枚の羽根も生えぬ烏毛虫では、ただ気味悪いだけではありませんか」 「あら、蝶の羽根は二枚ではなく、四枚だというのをあなたは知らないの。蝶だからおもしろいのじゃないわ。それと同じに、烏毛虫だからおもしろいのでもないの。この烏毛虫が、蝶になってゆくというのが、おもしろいのよ」  そう言っても、女房たちにはわからない。 「人々の、花、蝶やと愛《め》づるこそ、はかなくあやしけれ。人は、まことあり、本地《ほんぢ》たづねたるこそ、心ばへをかしけれ」  世の中の人々が、花だとか蝶だとか、外見だけに捕われて価値を決めようとすることの方がおかしいのであり、真実《まこと》を見極めようとする心をもって、ものの本質を追求することこそがおもしろいのであると、現代で言えば科学者か学者が口にするが如きことを露子姫は言った。 「烏毛虫の、心深きさましたるこそ心にくけれ」  眺めていると、烏毛虫と言えど、どこか思慮深そうに見える──そこがまた奥ゆかしいのであると、姫は言うのである。  集めるのは、烏毛虫だけではない。  犬や猫や鳥も飼うし、蛇《ながむし》や蟇《ひき》も飼う。  女房たちはいやがるので、もの怖じしない男《お》の童《わらわ》たちをいつの間にか身近に集め、その童子たちを使って、蟷螂《いぼじり》や蝸牛《かたつぶり》などを捕えさせている。  新しいものが見つかれば、自らそれに名を付ける。  むしだけではなく、姫はこの童子たちにも自分で名を付けた。  けら男《お》。  ひき麿《まろ》。  いなご麿。  雨彦。 「けら男や、おまえの捕ってきた蟷螂は、この前のものとは、少し違っているようだわ」 「ひき麿、あなたの見つけてきた蝸牛の渦は、普通のものとは逆巻きよ」 「いなご麿、おまえの見つけてきた烏毛虫は、かぶと虫だったのね」 「雨彦、おまえが川で見つけてきた虫は、水ぶんぶんと名前を付けたわ」  珍らしいものを見つけてくると、こう言って、彼らの欲しがるような品を与えるので、常に、露子姫の屋敷には、むしたちがいっぱいであった。  時おりは、人を使って上手に外へ抜け出てしまうこともあるが、それでも、姫であるので、ただ独りで自由気儘に外に出ることができるわけではない。  だから、童子たちがむしを捕えてくるたびに、それはどこのどういう場所に、どういうふうにしていたのか、どう捕えたのかを聴いては、それを紙に書き記した。  十八歳になるが、常の女のようにお歯黒をしなかった。  だから、笑うと白い歯が赤い唇からこぼれ出る。  眉も抜かなかった。  だから、眉を描くこともなく、自前の毛の生えた眉をしていた。  化粧もしない。  明け暮れに、額髪《ひたいがみ》を、手で梳《す》いて、耳|挟《はさ》みにする。  世の常の姫のするようなことはほとんどしなかった。したのは、書を読むこと、書を書くこと、楽器を嗜《たしな》むこと──それくらいである。  それも、書だけは人以上に読んだので、『白氏文集』や、『万葉集』などは諳《そら》んじている。  父の橘実之が、小言を言っても、聴く様子はない。 「露子や、そういつも、身のまわりをむしでいっぱいにしていては、音聞《おとぎ》きがあやしいというものだよ。おまえが、烏毛虫を好きだというのはいいが、世間の人たちというのは、やはり美しい蝶の方が好きなのだ。そこのところを、もう少しわかってはくれないかね」 「世間の噂なんて気にしていたら、何もできないわ。わたしは、この万物《よろず》の現象《ことども》を探究《たずね》て、この道を極めてゆくことの方が、世間のことを気にしているより、ずっと楽しいわ」 「だが、烏毛虫は、気持ち悪くはないのかい」 「そんなことはないわ。お父様がお召しになっている絹の衣《きぬ》だって、こういう烏毛虫が吐き出した糸から作るのよ。繭《まゆ》から孵《かえ》って、羽根の生えたとたんに、蚕《かいこ》は死んでしまうのよ。こんなに愛しいことってないじゃないの」 「しかし、おまえ、その眉や歯はなんとかならないのかい。もう宮中に上れとは言わないが、もう少し人並みのことをしてくれないと、誰もおまえのことを振り向いてはくれないよ。どこぞによいお男《かた》がいても、おまえがそんなでは、まとまる話もまとまらないじゃないか──」 「お父様、わたしのことを心配してくださるのは嬉しいけれど、わたしはわたしよ。このままのわたしでいいと言って下さる方がいないのなら、話なんかまとまらなくてもいいわ」 「そうは言ってもなあ。おまえはまだ、世間というものを知らないから、そんなことを言っていられるのだよ。お願いだから露子や、少しはわたしの言うことも聴いておくれ。おまえは、器量は人並み以上なのだから、もう少しそこのところをなんとかしてくれれば、よいお男《かた》も現われてくれると思うのだがねえ──」  実之が言っても、露子姫は虫を飼うのをやめなかった。眉を抜くことも、歯を黒く染めることもしなかった。 「いいのよ、このままで──」  露子姫はそうつぶやき、 「鬼と女とは、人に見えぬぞよき」  そう言って微笑したというのである。      三 「なるほど、鬼と女とは人に見えぬぞよき──か」  晴明は、杯を口に運びながら言った。 「しかし、晴明よ」  博雅が、晴明に声をかける。 「なんだ博雅」 「その人に見えぬがよいということなのだが──」 「どうした?」 「女が人に見えぬがよいというのはわかる」 「うむ」 「美しいお方が、わざわざ御簾《みす》や几帳《きちよう》の陰にそのお姿を隠しているというのは、それでなかなか奥ゆかしい。また、見えぬからこそ、文や歌やそのお声から、あれこれとそのお姿を想像し心の裡《うち》の想いもつのろうというものだ」 「うむ」 「だが、どうして鬼なのだ」 「───」 「鬼もまた人に見えぬがいいということは、鬼とは出会わぬ方がよいという、ただそれだけのことを言っているわけではないのだろう」 「まあ、そうだろうな」 「では、いったいどういうことなのであるかという、そのあたりのことが、おれにはここひとつわからないのだ」 「───」 「どうなのだ。そのあたりのことを、おれに教えてくれぬか、晴明」 「それは、まあ、呪《しゆ》ということだな」 「また、呪か」 「気にいらぬか」 「ああ。おまえが呪の話をすると、何やら急に話がややこしくなるではないか」 「別に、ややこしいことはない」 「いいや、ある」 「困ったな」 「困ることはない。呪のたとえを使わずに、おれに教えてくれ」 「博雅よ。おれは別に呪をたとえとして使おうというわけではない。呪は呪だ」 「とにかく、呪ではないことで、おれにそれを教えてくれ」 「わかった」  晴明は、苦笑しながらうなずいた。 「では、頼む」 「つまりだ、博雅」 「う、うむ」 「鬼というものは、どこに棲む?」 「棲むだと?」 「そうだ」 「そ、それは──」  博雅は言いよどみ、それから急に、何事か想いついたように言った。 「──それは、人だ」 「人?」 「人の心さ。鬼は、人の心の中に潜み、棲むのであろうが」 「その通りさ、博雅」 「う、うむ」  博雅がうなずく。 「誰でも、人はその心の中に鬼を棲まわせている」 「うむ」 「だからこそ、人は、人を大事にするのさ」 「───」 「その鬼が自分の心の中から顔を出さぬよう、人は自分を大事にする。鬼を出さぬかわりに、人は笛を吹き、絵も描き、仏に祈る」 「───」 「鬼が、人の心の中から顔を出さぬよう、自分と同様に人のことも大事にしようとする」 「う、うむ」 「鬼は、人の心の中にいる。しかし、その鬼が見えぬからこそ、人は人を恐れ、人を敬いもし、お慕い申しあげたりするのさ。この鬼が、本当に見えてしまったら、人の世は味けなかろう」 「それはつまり、晴明よ、人の心がわかってしまったら味けないということなのだろう」 「そうだ。わからぬからこそ、おもしろい」 「そういうことか」 「うむ」 「やはり、呪などを持ち出されなくてよかった」 「そんなことはない。呪で話せば、もっと話は速い」 「いや、呪は勘弁してくれ。今のでおれは充分だよ晴明──」 「そうか」 「しかし、晴明よ」 「なんだ」 「それでも、人は鬼になることがあるのだろう?」 「あたりまえではないか」 「あたりまえか」 「人だからな」  ぽつりとつぶやいて、晴明は、また酒を口に含んだ。 「なるほどなあ、おまえが、露子姫のことを頭がよいと言ったわけがわかったよ」  博雅は晴明を見やり、 「ところで、晴明、どういうことなのだ」  そう言った。 「何のことだ」 「だから、露子姫のことを知っているかとおれに訊いたことだ。露子姫のことで、何かあったのか」 「あった」  晴明は、うなずき、杯を簀子の上に置いた。 「実は、今日の昼、橘実之殿が、この屋敷までおいでになられたのだ──」      四  供の者わずかにひとりという人数で、橘実之はやってきた。  門をくぐって牛車《ぎつしや》を停め、あたりをはばかるように、牛車から降りて、晴明に案内を請《こ》うたのである。  実之の官位は従三位《じゆさんみ》であり、身分は晴明より上である。本来であれば、わざわざ自ら晴明の屋敷まで出向くようなことはしない。  お忍びであった。  晴明と向き合ってから、 「困ったことになった」  実之はすぐにそう切り出した。 「何でしょう」  晴明が落ち着いた声で問えば、 「実は、娘のことなのだ」  実之は、溜め息と共に言った。 「晴明、おまえの耳にも届いていよう。露子のことは──」 「虫がお好きだとか」 「そのことよ」 「虫のことで、何かございましたか」 「あった……」  そうつぶやいてから、実之は、気味悪いものでも見たように首をすくめた。 「それも、なかなか怖ろしいことになっていてな。しばらくは我慢していたのだが、ついに耐えられずに、おまえに相談に来たというわけなのだ」 「承りましょう」 「実は、烏毛虫《かわむし》のことなのじゃ──」  そう言って、実之は語り出した。      五  露子が、その奇妙な烏毛虫を飼い出したのは、ちょうど、ひと月ほど前からであったという。  真っ黒な、毛の無い烏毛虫である。  大人の親指ほどの大きさで、身体に、毒々しい赤い斑点《はんてん》がある。  見つけてきたのは、けら男であった。  神泉園でむしを捜していたところ、ちょうど、眼の高さにあった若葉の出た桜の小枝にこの烏毛虫がいたのだという。  烏毛虫は、桜の若葉を喰んでいた。  普通、桜につく烏毛虫には、毛が生えている。しかし、その烏毛虫には、毛がなかった。それだけでも珍らしいし、その姿も色も、けら男がこれまで見たことのないものであった。  さっそく、枝ごと折ってその烏毛虫を持ち帰った。 「まあ、本当に珍らしい烏毛虫ね」  露子は、悦びと驚きの混じった声をあげた。  露子も初めて見るものであり、もちろん名など知るわけもない。 「どうせ、訊いても誰もわからないでしょうから、わたしが名を付けましょう」  露子が、その烏毛虫に名を付けた。 「そうね、身体が黒くて、丸い点々があるのだから、黒丸《くろまる》にしましょう。黒丸がいいわ」  こうして、その烏毛虫は、黒丸と呼ばれるようになった。 「黒丸は、どんなてふてふになるのかしら。羽根の大きな揚羽《あげは》かしら。それともその身体のように黒い羽根の蛾《が》になるのかしら。でも、もとの色が黒いからって、黒い羽根のものになるとは限らないわね。楽しみだわ」  紗を張った籠箱に黒丸を入れていた。  中に葉の付いた桜の枝を入れてやると、黒丸は、さりさりと音をたて、その葉を喰べた。  奇妙なことに気づいたのは、二日後の朝であった。  籠箱の中を見ると、昨夜入れておいた桜の葉が全てきれいに失くなっていて、ふたまわり以上も大きくなった黒丸が、そこにいたのである。黒丸の大きさは、親指二本を合わせたよりも太く、長くなっていたのである。 「よく喰べるのね」  また、たくさんの桜の葉を与えたが、すぐにそれを喰べ尽くしてしまう。  三日目の朝には、さらに大きくなり、前の晩にぎっしりと入れておいた桜の葉がやはり失くなっていた。 「あら、黒丸や、あなたはいったいどういう烏毛虫なの」  さらにたくさんの葉を与えたが、それもあっという間に黒丸は喰べてしまう。  五日目には、芋《いも》ほどの大きさになり、もうその籠箱には入らなくなった。  さらに大きな籠箱をあつらえて、黒丸を入れたのだが、それもすぐに窮屈になった。  桜の葉を入れても入れても、すぐにそれを喰べ尽くしてしまう。葉が失くなると、  ちい、  ちい、  と声をあげて鳴くようになった。  烏毛虫が声をあげることが、そもそも不思議である。  試しに、庭にあった他の葉や草を与えてみると、迷うことなくそれを喰べる。  十日目の朝──  籠箱を見ると、紗が破られていて、中に黒丸がいない。 「黒丸や、黒丸や──」  どうしたことかと捜しているうちに、露子の足が、奇妙な感触のものを踏んだ。固いような、柔らかいような、細長いもの。  それをつまんでよく眺めてみれば、なんとそれは鼠の尻尾であった。  声をあげて、露子はそれを庭へ投げ捨てた。  その庭の草の陰で、何やら動くものがあった。  庭へ降りて、それを見ると、それは猫ほどの大きさになった黒丸である。 「黒丸!?」  黒丸は、その草の陰で、鼠を喰べていたのである。  しかし、どうして、烏毛虫の黒丸が、鼠のように速く動くものを捕えることができたのか。  その理由はやがてわかった。  鼠を喰べ終えた黒丸が動き出したのである。  大きくなっているため、這う速度は速くなっているが、しかし、鼠を追って捕えられるような速さではない。  黒丸が後にした場所には、頭だけとなった鼠の屍骸《しがい》が転がっていた。  動いてゆく黒丸を、露子が追ってゆくと、急に黒丸はそこで動くのをやめ、背を丸めるようにして縮んだ。  それを両手で捕えようとした時、ふいに、黒丸が跳んだ。  地面から跳ねて、驚くほどの速さで宙を飛び、向こうの松の幹にへばりついたのである。 「あれ」  一緒にいた女房たちは、声をあげて後ろに退《さ》がった。  もし、近づいていって、いきなり黒丸に跳びかかられでもしたら。  そう思ったら腰が退《ひ》けてしまうのは当然である。  近づいていったのは露子だけであった。 「なんて子なの、黒丸は──」  よじよじと松の幹を登ってゆく黒丸に両手を伸ばした時は、女房たちが悲鳴のような声をあげた。  しかし、露子は平然と、黒丸を両手に抱えて松の幹からひきはがした。 「まあ、なんてことをなさるのですか」 「もし、鼠のように喰べられてしまったらどうするのです」 「早くそれを捨ててしまいなさい」  露子の手に掴《つか》まれて、ぐねぐねと動く薄気味悪いものを見やりながら、女房たちはさかんに同じことを言った。 「あら、この大きさの猫だって、鼠は喰べるわよ。でも、猫は人を喰べたりはしないわ──」  ちい、  ちい、  と露子の手の中で、黒丸は鳴いた。  新しく、木で檻《おり》を作って、その中に黒丸を入れたが、また、黒丸は逃げ出してしまった。  なんと、檻に使用していた木の材を齧《かじ》り、そこを破ってしまったのである。  見つかったおり、犬ほどの大きさになった黒丸は、庭で青大将を喰べていた。  さすがに、この時はもう、女房たちはこの黒丸に近づこうとしなかった。 「殺してしまいなさい」 「こんな烏毛虫は見たことがありません」 「これはきっと、この世のものではなく魔性のものです」  口々に女房たちは言ったのだが、 「何を言うの。見たことがないから、飼おうとしているんじゃないの」  露子はとりあわない。  これが、とうとう父の実之の耳にも届いてしまった。 「烏毛虫が、鼠や蛇《ながむし》を喰べるなぞ聞いたことがない。やはりこれは魔性のものだ。露子や、黒丸を殺すか捨てるかしてしまったらどうかね」  しかし、露子の決心は堅かった。 「殺すなんて、とんでもありません。これからいったい何が孵るか見るまでは、捨てることもいたしません。だいたい、これが魔性のものだなどと、どうしてわかるのですか──」 「どうしてって、それはもう、魔性のものに決まっているよ」 「だから、どうしてそれがお父様にわかるのです」 「わたしにはわかるのだ」 「たとえ、魔性のものでも、わたしはこれが孵るところを見たいわ」  埒《らち》があかない。  とうとう困り果てて、実之は晴明の許《もと》にやってきたというわけなのであった。      六 「ほとほと弱っておるのだ、晴明」  実之は、晴明に言った。 「で、今、その黒丸はどれほどの大きさになっているのでしょう」 「うむ。あれからもう十日余りも過ぎておってな。三日前、見に行ったらば子牛ほどの大きさになっておった」 「子牛ほどですか」 「さすがに、檻を作るわけにもゆかず、牛を置いておく牛舎にさらに囲いをしてな、そこに入れてある」 「露子様は、その烏毛虫──黒丸のことも絵にお描きになられていらっしゃるのですか?」 「ここに用意してある」  実之は、懐からたたんだ紙を取り出し、晴明の前でそれを広げて見せた。  手に取って見れば、なるほど、そこに黒い烏毛虫が描かれており、話の通りに朱でその身体に点々が入れてある。  つくづくとそれを眺め、 「ふむう」  晴明は声をあげた。 「何か?」 「実之様」  晴明はあらたまった口調で言った。 「この晴明に、何か隠していることはございませんか」  言われた実之は動揺した。 「い、いや。別に、隠していることなどはない」  そう言った実之を、晴明は見やった。  無言である。 「な、何かこのわしが隠していることがあるとでも言うのか」 「失礼いたしました。何かお忘れになっていることはございませんか。そのお忘れになっていることを思い出していただけませんか」  再び、晴明が実之を見やった。  何もかも、腹の中の食べたものまで覗き込もうとするような晴明の眼であった。 「せ、晴明……」 「思い出されましたか」 「お、思い出した」  耐えきれずに、実之が言った。 「それはようございました」  晴明が微笑した。 「では、思い出したことをおっしゃって下さい。このことで、どなたかの所へお出かけになられましたね」 「あ、ああ、出かけた」 「どなたの所です」 「あ、蘆屋道満《あしやどうまん》──」 「ほう、道満殿の所へ──」 「そうだ」 「何のために?」 「その、つまり、頼みごとをするためだ」 「どういう?」 「だから、露子のことでだ」 「それで?」 「露子の虫好きを何とかしたいと──」 「ほう」 「何かよい方法はないかと訊ねた」 「で、道満殿は何と?」 「方法はあると」 「どんな?」 「こ、蠱毒《こどく》をやればよいと」 「ほう、蠱毒を」  道満は、次のように言ったという。  まず、どのような烏毛虫でもよいから、千匹を集めよと。  集めたら、それをこれほどの甕《かめ》に入れ、犬を殺してその血肉を甕の中に注ぎ入れよ。  その後、甕に蓋をして、その上にこれからおれが書く呪符を張る。これを地中に埋めて、十日後に掘り出せばよかろう。おそらく千のうち一匹は、犬の血肉を啜《すす》って生きていよう。  その烏毛虫を娘に捕えさせて、それを飼わせればよい。  さすれば、娘はもう二度とむしを飼いたいなどとは言わなくなるであろうよ。 「で、それをやったのですね」  晴明が訊いた。 「ああ、やった……」  その時のことを思い出したように、気味悪そうに実之は顔をしかめた。 「ただの一匹、黒い身体に赤い斑点のある烏毛虫が生き残った……」 「それが今、露子姫の飼っていらっしゃる黒丸なのですね」 「そうだ。わしはそれを、わざわざけら男に見つかるような場所に置いておいたのだ。ああ、わしは何ということを。わしのおかげで、娘はあのむしに憑かれてしまったのだ──」 「で、道満殿は、他に何と?」 「む、娘がむしを嫌になったら、殺すなり捨てるなりすればよいと──」 「もしも、嫌にならなかったら?」 「その時はなかなか困ったことになるであろうなあと、笑っておいでであった」 「困ったことに?」 「やがて、葉だけでなく、虫や生き物の血肉を啖《くら》うようになるであろうと──」 「そこまで言っておられましたか」 「そうなったら、どうすればよいかと、わたしは道満殿に訊ねた」 「道満殿は何と?」 「自分を訪ねてくれば何とかしてやろうと。しかし、自分が見つからぬ時は──」 「この晴明を訪ねよと、そう申されましたか」 「その通りじゃ」  実之は、切羽《せつぱ》つまった声で言った。 「晴明に話をもってゆけば、あの男が何とかするであろう──と」 「困ったお方だ」  晴明の口元に小さく笑みが点った。 「で、晴明、なんとかなるのか」 「なんとかなりましょう」  晴明が言うと、ようやく、実之がほっとしたような表情になった。 「ありがたい。わしはもう、あれが不気味でならぬのだ。いつか、露子があれに喰われてしまうのではないかと、心配で心配で。しかも、このわしが、あれを娘に……」  実之は、声を詰まらせた。 「では、明日、この晴明が露子様のところへ参りましょう」      七 「では、晴明、明日ゆくのか」  博雅が、晴明に言った。 「いや、そうもしておれぬようになった」  晴明が答える。 「どうしたのだ」 「今夜、ゆくことになった」 「今夜?」 「そうだ。それで、おまえの来るのを、実は待っていたのさ、博雅」 「おれを?」 「一緒にゆこうと思ってな」 「一緒に?」 「めったに見ることのできぬものを、おまえに見せてやろうと思ったのさ」 「し、しかし──」 「どうした?」 「明日行くと言っていたのが、何故今夜になったのだ」 「実はな、来たのさ」 「来た?」 「ああ、それで、明日ゆくつもりが今夜になってしまったのだ」 「おい、晴明、いったい誰が来たというのだ」 「だから、露子姫御本人がさ──」 「なに!?」  博雅の声が高くなった。      八  露子がやってきたのは、実之が帰って、しばらくしてからであった。  晴明が、庭で薬草を摘んでいる時である。  蜜虫が、晴明に来客を告げた。 「露子様と申されるお方がいらっしゃっております」  静かな口調で用件だけを口にした。 「はて──」  露子と言えば、さきほど帰っていった橘実之の娘以外に考えられない。  いったい何をしに来たのか。  晴明が考えたのは、わずかな時間であった。 「こちらへ通しなさい」  何をしに来たのかは、当人に訊ねる方が早い。  いったん姿を消した蜜虫が、ほどなくもどってきた。蜜虫の後ろに、男のような水干姿の娘が続いてきた。  その娘の後ろには、古びた小袖を着た九つばかりの童子がひとり、ついてきている。  蜜虫は、晴明の前までやってくると、 「お連れ申しあげました」  頭を下げて、脇へのいた。  晴明は、その娘と向き合うことになった。  大きな瞳が、晴明を見つめていた。  美しい娘であった。  もしも露子とあらかじめ知らされていなければ、男のなりをしているので、一瞬、美童であるかと思ってしまっても不思議はない。  長い髪は、頭の上に持ちあげて、烏帽子《えぼし》の中に隠してしまっている。  眉を抜いていない。  歯も黒く染めていなかった。  これでは、道ゆく人が露子を見ても、男と思ってしまうであろう。  女のように美しい男──。  呼吸をみっつかよっつできるほど、ふたりは無言で見つめ合った。 「素敵なお庭……」  最初に、露子の口からこぼれたのは、その言葉であった。  白い歯が、紅も差してない唇からこぼれた。  露子の大きな瞳が、摘んだばかりの草をつまんでいる晴明の白い指先を見た。 「車前子《しやぜんし》を摘んでいらっしゃったのですか」  露子は言った。  車前子──つまりオオバコのことである。  その草は、利尿薬として使われる。 「あちらにあるのは、茴香《ういきよう》ね。生姜《しようが》も、芍薬《しやくやく》もあるわ。あそこに芽が出てるのは、気の早い龍胆《りんどう》ね」  十薬《どくだみ》。  忍冬《すいかずら》。  ハシリドコロ。  次々に、露子は草の名を挙げてゆく。  いずれも薬草の名であった。 「あちらには南天。あそこには杏仁《きようにん》。山椒《さんしよう》もあるのね。まあ、怖い、ここには附子《ぶし》があるわ」  附子──これはトリカブトのことであり、その根は猛毒である。まだ花が咲いてはいないが、芽は出ている。花を見ずに芽だけでその名を挙げられるというのは、なかなかできることではない。 「お屋敷の中に、こんな野原のようなお庭があるのね」  露子の眼は、庭からようやく晴明にもどった。 「好きよ、このお庭」  露子の眼が、晴明の眼の上で止まっている。 「露子様ですね」 「はい」  露子がうなずいた。 「晴明様でしょう?」 「ええ」  晴明がうなずく。 「先ほど、お父様がこちらにいらっしゃったでしょう」 「はい。いらっしゃいました」 「黒丸のことね」 「はい」  晴明は、うなずき、 「どうして、橘実之様がこちらにいらっしゃったことを御存じなのですか」  露子に訊ねた。 「わたしのところに来て、黒丸の絵をそっと持っていったから、どうするつもりかすぐにわかりました」 「───」 「それで、このいなご麿に後をつけさせたの」 「なるほど──」 「お父様が、晴明様に何をお願いしたかは、見当がつくわ。でも──」 「でも?」 「お父様が頼んだこと、聴かないでってお願いしたら、怒る?」 「怒りません」 「でも、頼まれたことをするのでしょう」 「別に、いたしませんよ」 「わたしの屋敷にはいらっしゃらないのですか」 「うかがいます」 「やっぱり来るのね」 「でも、それは、実之様が頼んでゆかれたことをするためにゆくのではありません」 「では、何のために晴明様はいらっしゃるの?」 「見るためですよ」 「見る? 黒丸を?」 「はい」 「それならば、もう駄目よ」 「何故ですか」 「黒丸は、昨夜、牛舎から逃げ出してしまったの」 「逃げた?」 「ええ。それで、朝見つけたら……」 「見つけたら?」 「子牛から牛ほどの大きさになっていて、お庭の松にしがみつき、口から白い糸を出して、蛹《さなぎ》になってしまったのよ──」      九 「蛹にだって?」  博雅が声をあげた。 「ああ。だから、ゆくのが今夜になってしまったのさ」  晴明は言った。 「どうしてなのだ。何故、蛹になると、今夜になってしまうのだ」 「赤蚕蠱《せきさんこ》は、蛹になった日の晩に孵ってしまうからさ」 「赤蚕蠱?」 「道満殿が、蠱毒《こどく》によってお作りになった黒丸のことだ」 「なに?」 「だから、今夜は、おまえが来るのを待っていたのさ」 「おれを?」 「そうだ。ゆくか」 「どこへだ?」 「露子姫のお屋敷へ」 「な──」 「赤蚕蠱が孵るところだぞ。めったなことで見ることができるものではない」 「───」 「酒は、もう蜜虫と蜜夜に用意させている。杯はみっつ」 「みっつだと?」 「博雅、葉双《はふたつ》は持っているか」 「葉双ならば、懐にいつも持っているが」 「ならば、出かけようではないか。そろそろよい時間だ」  晴明が立ちあがった。 「お、おい。晴明……」  博雅が、腰を浮かせて、晴明に声をかける。 「どうした、ゆかぬのか」 「い、いや」 「ゆくか」 「う、うむ」 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。      十  晴明と博雅は、地面に赤い毛氈《もうせん》を敷いて、その上に座していた。  ふたりの前には、盆が置かれており、そこに瓶子《へいし》とみっつの杯が載っている。  ふたつの杯には酒が満たされているが、ひとつはまだ空であった。  天から、月光がふたりの上に注いでいる。  ほろほろと、ふたりは酒を飲んでいる。  ふたりの横に座して、酌《しやく》をしているのは蜜虫と蜜夜であった。  少し離れた場所に、水干姿の露子が座している。  もう、烏帽子はかぶってはいない。  長い髪が背に垂れている。  敷かれた毛氈の少し先には、松の古木が生えていて、その太い幹の途中に、何かがくろぐろとわだかまっている。  牛ほどの大きさのもの。  黒丸──赤蚕蠱の蛹であった。 「なあ、晴明よ──」  博雅は、黒丸の蛹を見あげながら言った。 「──あれが、本当に孵るのかなあ」 「孵るさ」  晴明が言った。 「もうじきだ」 「しかし、孵って、危ないことはないのか──」 「さて、そこのところが、よくわからぬ」 「わからぬ? 何故だ」 「それは、まあ──」  晴明は、露子を見やり、 「露子様次第ということであろうよ」  そう言った。 「わたし次第?」 「どういうことなのだ、晴明──」 「あの道満殿がやった蠱毒の法で作られたものだぞ」 「───」 「生まれてくるのは、式《しき》だ」 「式神か」 「いや、正確にはまだ、式神ではない。しかし、あれを飼っていたお方の心が、生まれてくるものを決めるのだ」 「なんだって?」 「露子姫が、どなたかを殺してやろうと恨んでいれば、赤蚕蠱は生まれた途端にその方のところまで行って、祟りをなすことになるであろうな」 「ならばかなり、怖ろしそうなものなのではないのか、晴明──」 「だから、それは、露子姫の御心次第であると言っているではないか」  晴明が、そこまで言った時、闇の中から、くつくつと何かが煮えるような嗤《わら》い声が響いてきた。 「おいでになられたか」  晴明が顔をあげた。  横手の築地《ついじ》塀の上に、星の天を背にして、立つ人影があった。  ふわりとその影が宙に飛んで、地に降り立った。  ゆっくりと、こちらに向かって歩いてくる。  泥で煮込んだような、ぼろぼろの水干を身に纏った老人であった。  白髪、白髯《はくぜん》。  髪も髯《ひげ》も、ぼろぼろと伸び放題であった。  黄色い双眸が、炯炯《けいけい》と光っている。  蘆屋道満であった。 「これはこれは。道満殿──」  晴明が言った。 「酒の用意はできておるか」  ずかずかと毛氈の上にあがり込んで、その上に座し、 「できておるな」  右手を伸ばして、空の杯を持った。  その杯に、晴明が酒を注いでやる。  それをひと息に飲み干し、 「うまい酒じゃ」  道満は言った。 「また、お遊びなされましたね」  晴明が、二杯目を注ぎながら言った。 「うむ。退屈であったのでな」 「しかし、式神が欲しくば、御自分でいくらでも調達できましょうに」 「晴明、自分で作る式神なぞ、もう飽《あ》いたわ。他人が作った思いもよらぬものの方がおもしろい」 「それで、実之様を御利用なさったのですね」 「おう。ちょうどよいところへやってきたのでな」  道満が、二杯目を口に運ぶ。 「使えそうなものであれば、このおれがもろうてゆこうと思うているのだが、まずは見物じゃ」  道満は博雅を見やり、 「おい」  声をかけた。 「なんだ」  博雅が答える。 「ぬしの笛を所望じゃ」 「笛を?」 「ぬしの笛が好きでなあ。頼む、聴かせてたもれ」  にい、と道満が笑った。  博雅が、懐から葉双を取り出した。 「どうじゃ、そなたもこちらへ来てやらぬか」  道満が、露子に声をかけた。  露子が、問うような眸《ひとみ》を晴明に向けた。  晴明が無言でうなずくと、 「よし」  露子が、男のように答えて、膝でこちらへにじり寄ってくると、道満は楽しそうに笑った。 「博雅の杯が、今は空いておる。気にならねば、それで飲め」 「飲む」  露子が持ちあげた杯に、蜜夜が酒を注ぐ。  露子がその酒を口に含む。  ひと口飲んでから、晴明を見、そして最後に道満を見やった。 「おいしいわ」  そう言って微笑した。  その時──  静かに、博雅の笛が月光の中に滑り出てきた。 「よい笛じゃ……」  道満が、杯を持ったまま、うっとりと眼を閉じる。  博雅の笛が、喨喨《りようりよう》と夜気の中に溶けてゆく。  眼を閉じてそれを聴いていた道満が、やがて、眼を開き、 「おう……」  声をあげた。 「始まったぞ」  皆の視線が、松の方に向いた。  それが、始まっていた。  松の幹に、黒い獣のようにしがみついているものの背が、小さく裂けていた。  その裂け目が、細く、青い、淡い光を放っていた。その裂け目が、だんだんと大きくなってゆく。  やがて、その割れ目の中から、ゆっくりと頭を持ちあげてくるものがあった。  それは、頭──顔であった。  蝶の眸をした人の顔──  その後から、羽根らしきものが出てくる。  最初は、よじり合わされた木の皮のようにも見えたが、それは、夜気の中に出てくるにつれ、ゆっくりと月光の中に翼を広げはじめた。  人の顔、人の手足を持ち、背に巨大な翼を持った蝶──  その羽根が、朧《おぼろ》な青い光を放ちながら、しずしずと月光の中に翼を広げてゆくのである。月光を受け、月光を吸い、その羽根が輝きを増してゆく。  溜め息の出るような光景であった。 「おう……」  道満が声をあげる。 「なんとみごとな……」  博雅も、笛を吹きながらそれを眺めている。  背の体毛が、一本残らず立ちあがってきそうなほど、美しい眺めであった。  やがて──  月光の中ですっかり羽根を伸ばしきり、その蝶は、ふわりと夜気の中に舞い上がった。 「綺麗……」  露子が声をあげた。 「これはもらえぬなあ」  道満がつぶやいた。 「露子姫……」  晴明が、露子に声をかけた。 「あれを、道満殿が、そなたに下さるそうじゃ」  晴明が微笑した。 「わたしに?」 「うむ」  うなずいたのは、道満であった。 「しかたあるまいよ、なあ、晴明──」  そう言って、道満は、またくつくつと嗤った。  大きな、朧な燐光を放つ翼を持った蝶が、月光の中で静かに舞っている。  博雅は、笛を吹き続けていた。 [#改ページ]   呼ぶ声の      一  巨大きな桜の古木であった。  根の周りに大人が立ち、両腕を広げて抱えようとすれば、三人、四人からの人数が必要となる。  その桜の樹の下に座して、藤原伊成《ふじわらのこれなり》は琵琶を弾いている。  夜──  満開の桜が伊成の頭上に被《かぶ》さっている。  月が、真上にかかっていた。  青い、冴えざえとした月光が、その巨大きな桜に注いでいる。  周囲には、他に桜の樹はない。杉や、楓《かえで》の樹に囲まれて、その桜の樹だけが、大きく花の付いた枝を広げて他を圧しているのである。  大きく横へ伸びた枝は、みっしりと咲いた桜の花びらの重さで、下へ下がっている。  風はない。  風はないのに、しかし、花びらが散る。  まるで、月の光の重さに耐えかねたように、しずしずと月光の中を桜の花びらが散ってゆくのである。  その花びらが、伊成の肩にかかり、頭にかかり、袖にかかる。  花びらに埋もれるようにして、伊成は琵琶を弾いている。  撥《ばち》を持った手が動くと、  嫋《じよう》、  と琵琶の絃《げん》が鳴る。  嫋。  嫋。  琵琶の音が、月光ともつれ合う。  嫋嫋《じようじよう》と桜の花びらにからみ、嫋嫋と琵琶の音が大気の中を昇ってゆく。  絃の震えが、花びらの一枚いちまいに触れてゆくたびに、花びらが枝から離れてゆく。  嫋と琵琶が鳴れば、ひらと花びらが舞う。  嫋。  ひら。  嫋。  ひら。  嫋。  ひら。  嫋。  ひら。  嫋、ひら、嫋、ひら、嫋、ひら。  嫋、ひら、嫋、ひら、嫋、ひら。  嫋、ひら、嫋、ひら、嫋、ひら。  嫋、ひら、嫋、ひら、嫋、ひら。  琵琶に花びらが合わせているのか。  花びらに琵琶が合わせているのか。  もはや、どちらともつかない。  やがて──  琵琶が止んだ。  琵琶の音《ね》がとだえると、あとは、ただこれまでと同様に、月光の中を桜の花びらがしずしずと散るばかりである。  伊成は、まだ、そこらの宙に消え残っている絃の震えを聴こうとしているかのように、眼を閉じている。  身の内に残っている琵琶の余音《よいん》に耳を傾けているようでもあった。  いや、すでに伊成にとっては、身の内も、自身の肉体を包むこの夜の大気も、同じ琵琶の音に共振するものとして、区別などないのかもしれなかった。  と── 「いや、実《げ》にみごとな琵琶であったなあ──」  いずこからか、感に堪えぬといった、溜め息のごとき声が聴こえてきた。  伊成は、閉じていた眼を開いた。  どこにも人の姿はない。  はて、確かに人の声が聴こえたような気がしたが──と周囲を見回しても、人影は見えなかった。  ただ桜の花びらが、音もなく散るのが見えるばかりであった。  気のせいであったか。  そう思ったところへ── 「まことに、類稀《たぐいまれ》なる琵琶の音色にござった」  またもや声が聴こえてきた。 「昨日もまいりましたな」  声が言う。  しかし、やはり声の主の姿は見えない。 「これほどの琵琶をお弾きになるとは、ぜひともお名前をうかがいたし」  また、声がする。  伊成が黙していると、 「ぜひ、御名を?」  声が訊ねてくる。  つられて、思わず、 「藤原伊成じゃ」  答えていた。 「伊成殿か」 「いかにも」 「なれば、伊成殿──」 「うむ」 「いずれ、ゆきまするぞ」 「ゆく?」 「ゆきまするが、よろしいか」  伊成が、返事にとまどっていると、 「ゆきまするぞ、伊成殿」  また声が言った。 「お、おう」  その声に、思わず伊成は答えていたのであった。      二  庭の桜は、今が盛りであった。  安倍晴明は、簀子《すのこ》の上に座して、源博雅と酒を飲んでいる。  灯火がひとつ。  白い狩衣姿の晴明は、柱の一本に背をあずけ、細い指先に杯を持って、それをゆるゆると紅い唇に運んでいる。  酒を含むその唇には、常に、わずかな笑みが浮いている。菩薩像がその唇に浮かべているような、微かな笑みである。桜の花びらにある、あるかなしかの薄い紅色──その程度のほんのりとした微笑であった。  桜襲《さくらがさね》を着た美しい女が、晴明と博雅の間に座し、ふたりの杯が空になると、瓶子《へいし》を手に取って、酒を注いでいる。  今夕、博雅が酒を持って、晴明に会いに来たのである。  博雅は、しばらく前から、酒を口に運んではしみじみと桜を眺め、桜を眺めては小さく溜め息をついている。 「どうしたのだ、博雅」  晴明が問う。 「いや、桜のことなのだがなあ、晴明よ──」  博雅は、持っていた杯を簀子の上に置き、庭の桜を見やった。  庭に、桜の古木がある。  月光の中で、桜が静かにその花びらを散らしてゆくのが見える。 「桜がどうしたのだ」 「つまり、その……」  博雅が口ごもる。 「その、何なのだ」 「だから、桜を見ると、ついおれは人の生命というものについて、しみじみと考えてしまうということなのだよ、晴明──」 「人の生命か」 「桜の花びらが枝から離れてゆくように、人の生命もまた、風の吹きようで、この人の身体《からだ》から離れてゆく……」 「───」 「風など吹かぬでも、あのように、花びらは枝から離れてゆく……」 「───」 「人の生命も、いつまでもこの身体にとどまるものではない……」 「うむ」 「晴明よ、おれも、おまえも散る桜だ」 「───」 「しかし、散る桜であればこそ、この世を愛しいと思えるのではないか。やがて、死ぬるのがわかっているからこそ、人は、人を愛しく思い、笛や琵琶の楽の音にしみじみとするものなのではないか」  博雅は、桜襲の女が満たしてくれた杯を手に取り、 「なあ、晴明よ」  真っ直な眼で晴明を見た。 「おれは、おまえとこうして知り合うことができて、本当によかったと思っているのだよ」  杯の酒を、博雅はひといきに飲み干した。  博雅の頬が、微かに赤く染まっている。  博雅の視線から眼をそらせ、 「蜜夜《みつよ》……」  晴明は、桜襲の女に声をかけた。 「博雅の杯が空だ」  蜜夜と呼ばれた桜襲の女は眼でうなずき、博雅の杯を、また、酒で満たした。 「逃げたな、晴明」  博雅は言った。 「逃げた?」 「おまえが問うたから、おれは話をしたのだぞ。なのにおまえは今話をそらそうとしたではないか」 「別に、逃げたわけではない」  晴明は、苦笑した。 「ほら、それだ」 「何のことだ」 「今、笑った」 「笑ったのが逃げることか」 「違うのか」 「また、そういう眼でおれを見る」 「眼?」 「博雅よ。そういう真っ直な眼で人を見るものではない」 「見ると、困るのか」 「困る」  晴明は正直に言った。 「白状したな」 「した」 「いつになく素直ではないか、晴明」 「おまえにはかなわぬ」 「何がかなわぬのだ」 「おれは、鬼神《きしん》を術で操るが、おまえは、自身そのままで鬼神を動かしてしまう」 「おれが、鬼神を動かす?」 「そうだ。おまえが動かすのさ、博雅」 「いつおれが鬼神を動かしたのだ?」 「それ、そこよ」 「どこだ」 「そういうところに気づかぬからこそ、鬼神も動くのさ、博雅」 「何だかよくわからぬ」 「わからなくてよいのさ」 「おい、晴明よ。おまえ、もしかして、またわけのわからぬ呪《しゆ》の話をして、おれを騙そうとしてないか」 「しておらぬ」  晴明は、杯を手に取り、 「それよりも博雅、そろそろ用件を聴こうではないか」  そう言った。 「用件?」 「今夜は、何ぞ用事があって来たのだろう?」 「あ、ああ──」  博雅はうなずいた。 「さっきから、桜のことが気にかかっているようだが、その用事というのは桜に関わりのあることなのだろう?」 「ああ、確かに桜に関係がないわけではない」 「何だ?」 「実は、藤原伊成殿のことなのだ」  博雅は言った。 「それは、ひと月ほど前、清涼殿にて琵琶を弾かれたあの伊成殿のことか」 「そうだ。おれとは、亡き式部卿宮のもとで、一緒に琵琶を学んだ仲でな。当代きっての琵琶の上手さ」 「それが、どうしたのだ」 「この三日ばかり、少し様子がおかしいのだよ」 「どのように?」 「それには、まず、四日前のことから話をはじめねばならぬのだが──」  そう言って、博雅は、その話を語りはじめたのであった。      三  伊成が、藤原兼家と共に船岡山に出かけたのは、四日前であった。  都の北──船岡山の中腹に、巨大きな桜の古木が生えていて、今年はそれがひときわみごとに花を咲かせているという。  その噂を耳にした兼家が、 「どれほどのものか、ではひとつ見に参ろうではないか」  そう言い出して、宴の仕度などをさせ、供の者たちを連れて出かけて行った。  この宴に呼ばれたのが、伊成であった。  伊成は、琵琶を持って出かけて行った。  行ってみれば、噂の通りにみごとな桜で、一同はその花の下で、酒を飲み、歌を詠み、伊成は琵琶を弾いた。  ひとしきり琵琶を弾いてから、伊成は次のような歌を口にした。   春霞たなびく山のさくら花うつろはむとや色かはりゆく 「『古今集』のよみ人知らずに、かような歌がござりまするが、咲けば散り、色のかわりゆくのが人のさだめなれば、古《いにしえ》の人が春夜に灯火を点《とも》してまでも遊んだというのは、まことに故あることでござりまするなあ」  唐の詩人の詩を引きあいに出して、深い溜め息をつき、 「桜花というのは、何かしら人の心をざわめかせるもののようでござりまするな」  伊成はこのように言ったという。  四日前のその日は、朝に出て夕《ゆうべ》にはもどってきたのだが、伊成は、またその翌日も出かけて行った。  今度は、ただ独りである。  しかも夜だ。  どうしても、夜に、ただ一人《いちにん》にて、あの桜の下で琵琶を弾いてみたいのだと言い出して、伊成は出かけていったのである。夜に、桜の下で琵琶を弾きたい──気持ちとしてはわかるが、場所が場所である。夜ゆくにはかなりの遠くである。どうも、はたから見ていると妙なところがある。  伊成は、正確に言うならば、小《こ》舎人童《どねりわらわ》をひとり連れていったのだが、 「おまえは、ここで待つがよい」  小舎人童を桜の樹の手前で待たせ、自分は琵琶ひとつ抱えて、独りでその桜の樹の下までゆき、そこに座したのであった。  思うさま、そこで琵琶を弾き、伊成は朝方には小舎人童と共にもどってきたのだが、帰ってくると、 「いや、奇妙なことがあった」  家の者たちに、伊成はそのようなことを言った。  琵琶を弾いていたら、誰か、声をかけてくる者がいたというのである。  一緒に連れてきた小舎人童の声かとも思ったのだが、どうもそうではないらしい。  誰もいないのに、声だけが聴こえてくる。  結局、誰であるのかを確認もせずに、もどってきてしまった──  それだけ言って、ことりと倒れ、そのまま伊成は眠ってしまったというのである。  何しろ、ひと晩中琵琶を弾いていたため、ほとんど眠っていなかったので、疲れたのであろうと家人は考えた。  寝かせておけば、いずれ夕刻には眼が醒めるであろうと思っていたのだが、夕刻になっても伊成は起きなかった。夜になっても起きず、深夜になっても伊成は起きてはこなかった。  身体に手をかけ、揺さぶっても起きてこない。  どうも、これはおかしいと家人が思いだした時── 「伊成殿……」  どこからか声が聴こえてきた。 「お約束通りにやってまいりましたぞ」  聴いたことがない声であった。  しかもその声の主がどこにいるのかわからない。 「山の字を下さらぬか」  わからぬことを言う。  不思議がっていると、ふいに、むくりと眠っていた伊成が起きあがっていた。  家人たちが見ている中で、伊成は簀子まで出てゆき、そこで、夜の庭に向かって、 「よう来られた」  声をかけ、琵琶を抱えたまま、伊成は簀子の上に座した。  そこで、琵琶を弾きはじめた。  弾きながら、まるで、そこに誰か知り合いでもいるかのように、夜の庭に声をかける。 「それは哀しかろう」 「何、出たいとな?」 「山から出たい?」 「山の字を?」  まるで、側《はた》で聴いている者には、独り言のようにしか聴こえない。  家人が心配しているうちに、琵琶の音はやんで、いつの間にか、伊成が簀子の上に倒れて、寝息をたてている。  そのままひと晩眠り続けたが、朝になっても伊成は起きなかった。  昼が過ぎ、また夕刻になり、また夜になっても伊成は起きなかった。  食事をほとんど口にしていないため、二日で驚くほど伊成は痩せてしまった。  そして、深夜──  またもや、どこからか、声が響いてきた。 「伊成殿……」 「伊成殿……」  声は聴こえるが、やはり、姿は見えない。  そのうちに、またもやむくりと伊成が起きあがった。  昨夜と同じである。  伊成は、琵琶を抱え、また濡れ縁の簀子の上に出てゆき、そこに座して琵琶を弾きはじめた。  そして、独り言を言う。  昨夜と違っているのは、伊成の視線であった。  昨夜は、独り言を言う時にもっと遠くを見ていたのだが、今は、もっと近くを見ている。 「山から出たいと言うか」  誰もいない庭に向かって、伊成が言う。  そして──  琵琶を弾き終えてまた眠ってしまう。  眠っている間に、ますます伊成は痩せてゆく。  さすがに、家人も気味が悪くなった。  これは、何か性《たち》のよくないものに憑かれているに違いない。  放っておけば、いずれ、伊成は、その性《たち》のよくないものに生命を奪われてしまうのではないか。 「それで、伊成殿の家から、今日、おれのところまで使いがやってきたのさ。ぜひおまえに、相談にのってもらいたいと言うのだよ、晴明──」  博雅は言った。 「しかし、名を呼ばれて返事をしたのはまずかったな」  晴明は、杯を置いてつぶやいた。 「名を?」  博雅が訊く。 「たとえ名を呼ばれても答えねば、呼ぶ声は風の音と同じだが、呼ばれて答えれば、そこに縁《えん》という呪《しゆ》が結ばれてしまう」 「呪か」 「呪だ」 「で、どうする。明日、伊成の屋敷まで行ってくれるか」 「いや」  晴明は、小さく首を左右に振った。 「今夜ゆこう」 「よいのか」 「かまわぬ。こういうことは、早い方がよい。その声が伊成どのを呼びにくるまでには、伊成殿の屋敷までゆけるだろう」 「おう」 「ゆくか」 「うむ」 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。      四  琵琶が、嫋嫋と鳴っている。  簀子の先に座して、伊成が琵琶を弾いているのである。  軒から射し込んでくる月明りが、伊成の姿を、青く、濡れたように闇の中に浮きあがらせていた。  几帳《きちよう》の陰に隠れて、晴明と博雅は、伊成の様子をうかがっている。  伊成は、これまでと同様に、庭にいるらしい見えぬものと会話をしている。 「何を申されているのか、わたしにはよくわかりませぬ」  琵琶を弾きながら、伊成が言う。 「山から出たいと申されてもなあ」 「あのよみ人知らずの歌が、気に入られましたのか」 「山の字がよいと?」  いずれも、独り言のようでもあり、すぐそこにいる誰かに向かって話しかけているようでもある。  しかし、博雅には、庭のどこを眺めても、人影は見えない。  黙したまま、庭先を見やっていた晴明が、 「なるほど……」  小さな声で囁いた。 「なるほどとは、晴明、何かわかったのか」  博雅も、囁き声で、晴明に言った。 「ああ、多少のことはな」 「多少だと。おれには、何のことだかさっぱりわからんぞ」 「あれが見えぬでは、それも仕方あるまい」 「あれ? 晴明、おまえには何か見えているのか」 「ああ」 「何が見えている」 「伊成殿のもとに、毎晩通ってきている客人の姿がね」 「客だと。おれには何も見えぬ」 「見たいか」 「おれにもそれを見ることができるのか」 「まあな」  答えた晴明は、左手を伸ばし、 「博雅、眼を閉じよ」  そう言った。  博雅が眼を閉じると、晴明は、左手を博雅の顔にあてた。  親指で、博雅の閉じた左眼を押さえ、人差し指と中指で、右眼を押さえた。  右手を博雅の後頭部にあて、晴明は小さく呪を唱えた。  博雅の頭部から両手を離し、 「眼を開けよ」  晴明が囁いた。  博雅が、ゆっくり眼を開いた。  その眼が、さらに大きく見開かれた。  あっ……  という声を、博雅は飲み込んだ。 「人がいる……」  掠《かす》れた声で、博雅は言った。  博雅は、まじまじとその光景を見ていた。  簀子に座した伊成の眼の前──庭の植え込みの間に、人が座しているのである。  青い、古びた小袖を着た男であった。  歳は、五十になるであろうか、ならぬであろうか。  その男が、土の上に座して、伊成と会話を交わしているのである。  その男の額に、何か見えていた。  文字のようであった。 「晴明、庭にいる男の額に、何か書いてあるぞ……」  漢字で、ひと文字。 「山か」  博雅はつぶやいた。  庭に座している男の額に、筆で�山�という字が書かれていたのである。 「博雅よ、これは、存外に早くことがおさまるかもしれぬぞ」  晴明は言った。 「ほんとうか」 「今夜のところは、何もせぬでよい。ひとまず放っておくのがよかろう」 「大丈夫なのか」 「ああ。このひと晩、ふた晩で、どうにかなってしまうことはなかろう。伊成殿が、もう少しお痩せになるかもしれぬが、生命に関わるようなことはあるまい」 「で、どうするのだ」 「明日、あのお方に会いにゆく」 「あのお方?」 「何をするにしても、あのお方から話をうかがってからだろう」 「誰なのだ、あのお方というのは」 「おまえも、会ったことがある」 「なに!?」 「我が師賀茂忠行様の御子息、賀茂保憲どのだよ」  晴明は言った。      五  翌日──  晴明と博雅は並んで座し、賀茂保憲と向かいあっている。  保憲は、今、穀倉院別当という役職にある。  父は、陰陽師賀茂忠行。  もともとは、保憲は陰陽寮にいた人間である。  それが、出世をして穀倉院別当となった。  本来であれば、保憲と晴明が並んで、ふたりよりも官位が上の博雅と相対すべきところであるのだが、そういう配慮なしで三人は顔を合わせている。  保憲の屋敷であった。  保憲は、黒い水干で身を包み、くったくのない明るい表情で、晴明、博雅と対している。  その左肩に、小さな黒い獣が、丸くなって眠っている。  黒い猫。  しかし、ただの猫ではない。  猫又である。  保憲が使っている式神であった。  三人は、ちょうど、今、挨拶をし終えたところであった。 「さて、晴明、今日訪ねてきたのは、どういうことかな」  保憲が訊いた。 「ひとつ、うかがいたいことがございまして──」  晴明が、軽く頭を下げると、 「何だ」  保憲が言う。 「ここしばらくの間で、山込《やまご》めの法をお使いになったことはございませんか」 「山込めだと」 「はい」 「はて──」  保憲は、しばらく何か考える風で、視線を遠くにさまよわせた。 「ここひと月、ふた月ということではありません」 「───」 「三年、四年、そういう長さではございませんか」 「ああ、そういうことなら──」 「覚えがございますか」 「ないことはない」 「いつのことでございましょう」 「いや、待て、晴明──」 「はい」 「言うのは別にかまわぬが、いったいどうしてそんなことを知りたがる?」 「あの山込めの法、わたしの知る限りでは、賀茂忠行様から、保憲様とわたししか受けついでおりません」 「うむ」 「その法を使ったものがおります」 「───」 「我が師忠行様が亡くなられた今、それを為すことができる者と言えば、わたしか保憲様。わたしが使ってないのであれば……」 「おれがやったということか」 「はい」  晴明はうなずいた。 「確かに、おれはやっているよ」 「いつでございます」 「五年ほども前になるか──」 「いったい、どういういきさつがあったのでございますか」 「それを話すのはよいが、その前に晴明、まずおまえから今度のことについて話せよ。おれの話はそのあとからだ」 「はい」  うなずいて、晴明は、昨夜博雅から聴いた話のひと通りを語った。 「なるほど、そういうことか。それなら、おそらくおれの分だ」  保憲は言った。 「では、先ほどのお話にもどりますが、五年前、何があったのでございますか」  晴明が問うと、 「それは、|あの男《ヽヽヽ》の分なのさ、晴明──」  保憲は言った。 「あの男?」  問うたのは、博雅である。  保憲は、気づいたように博雅を見やった。 「いや、博雅様がおいででございましたなあ」  保憲は、右手で後頭部を掻きながら、苦笑した。 「帝《みかど》のことでござります」  保憲は、博雅に言った。  晴明と同様に、この保憲も帝のことをあの男と呼ぶ。  悪びれた風はどこにもない。 「五年前、帝のことを、呪詛《ずそ》し奉る者がいたのさ、晴明よ」 「はい」  晴明がうなずく。  博雅は保憲が帝をあの男と呼んだことに対して驚きはしたが、晴明の時のようにそれをたしなめたりはしなかった。  大人しく、保憲の語る言葉に耳を傾けている。 「三日三晩、帝がたいへんなお苦しみようなので、このおれが呼ばれたのさ」 「それで?」 「返し矢をした」 「はい」 「白羽の矢を空へ射て、呪詛を返したのだ。その矢が、船岡山の方へ飛んで行ったので、追ってみたら、あの桜のあるところであったというわけさ」 「ははあ」 「そこに、海尊《かいそん》という法師陰陽師が、おれの返し矢に胸を貫かれて倒れていたのだよ。すでに虫の息でな。息のあるうちに聞いておこうと、誰に頼まれたのかと問うた──」 「誰に頼まれたと?」 「誰にも頼まれてはおらぬ、これは自らの意志じゃと、その陰陽法師は言っていたよ。何故、帝を呪詛したのかと問うたらば──」 「問うたら?」 「答えなかった」 「答えなかったのですか」 「くやしそうに、海尊はおれをにらみ、死して後保憲に祟《たた》らん──このように言うではないか」 「それで──」 「祟られたからといって、別に怖いことはないが、後で面倒なことになるのもいやでなあ、祟られぬようにしたのさ」 「それで、山込めを──」 「そういうことさ。で、海尊の屍体を桜の根元に埋めたのさ」 「それでわかりました」 「しかし、そういうことになっているとは知らなかった」 「ところで、保憲様──」 「おう、なんだ」 「この件、この晴明がよろしくとりはからってもかまいませぬか」 「かまわぬ。そうしてくれ」  保憲はうなずき、 「ところで晴明──」  身を乗り出して言った。 「何でしょう」 「また、おまえの所へ酒を飲みにゆかせてくれ」 「いつでも」 「あそこが気に入ってしまってなあ。落ちついて酒が飲める」  保憲は、明るく微笑した。  その肩で、猫又が丸くなってまだ眠っている。      六  船岡山の桜の樹の下までやってきた時には、すでに夜になっていた。  頭上から、はらはらとしきりに桜の花びらが散っている。  木の枝を拾って集め、桜の下で火を燃やした。  博雅と晴明は、用意してきた鍬《くわ》で、桜の樹の根元を掘っている。  火の横では、蜜夜が座し、硯《すずり》を地に置いて墨を磨《す》っている。  すでに、月が昇っていた。  何度か、鍬を入れていた博雅が、 「おう」  声をあげた。 「人が埋まっているぞ、晴明──」 「海尊どのであろうよ」  晴明が言った。  ほどなく、その屍体が掘り出され、桜の樹の下に横たえられた。  博雅が、伊成の屋敷の庭で見たあの男であった。  その男の上に、はらはらと桜の花びらが散りかかる。 「晴明よ、なんと不思議なことではないか」  博雅が言った。 「どうしたのだ」  晴明が訊く。 「この屍《かばね》のことだ。話では、五年も前にここに埋められたはずだが、腐ってもいなければ、虫に喰われてもおらぬではないか」 「山込めの呪《しゆ》がかけられているからな」 「山込めの呪?」 「うむ」 「何度かその名は耳にしたが、いったいどういう呪なのだ」 「これさ」  晴明は、屍体の額を指差した。  そこに、博雅も見た山の字が書かれている。 「この呪をかけられるとな、めったなことでは、魂はこの身体から外へ出てはゆけぬのさ──」 「───」 「死してなお、その肉のうちに、魂は閉じ込められ、あの世にもゆけず、腐ることもかなわぬ」 「場合によっては、出てゆけるのか?」 「ああ。伊成殿の琵琶のような、優れた楽の音《ね》などに縁を結べば、その楽の音に合わせて、出てゆくことができるのさ」 「それで、海尊殿は──」 「伊成殿の名を呼んで、縁を結んだのだよ」 「しかし、何故?」 「何故であろうかな」 「おい晴明、おまえには、もうわかっているのだろう」 「ああ、だいたいのところはな」 「ならば、おれに教えてくれてもよいではないか」 「いや、おれが教えるよりも、それには、もっとふさわしいお方がいる」 「誰だ」 「この海尊殿さ」 「何!?」 「これから、この海尊殿にかけられた、山込めの呪を解く。そうしたら、海尊殿御自身から、それをうかがえばよかろう」 「───」 「おれにも、まだ、わからぬことがあるのでな」 「お、おい、晴明──」  博雅の声を背に聴きながら、晴明は蜜夜に声をかけた。 「蜜夜や、用意はできたかね」 「はい」  蜜夜は頭を下げてから、磨ったばかりの墨をたっぷり含ませた筆を差し出した。  その筆を、晴明が受けとった。 「どうするのだ、晴明」 「こうするのさ」  晴明は、その筆で、海尊の額の�山�の字の下に、もうひとつ、�山�の字を書いた。 �山�  という字が、 �出�  という字になった。 「これでよい」  晴明がつぶやいた時、ゆっくりと海尊の屍体が身を起こし、そこに座した。 「せ、晴明……」  博雅が、小さく掠《かす》れた声をあげた。 「心配はいらぬ」  晴明は言った。  海尊は、すうっと眼を開き、晴明を見、それから、自分に振りかかる桜に気づき、顔を上にあげた。 「桜か……」  海尊が、乾いた声でつぶやいた。  それから、また、ゆっくりと晴明に視線をもどした。 「安倍晴明様と、お見受けいたします……」  風が、乾いた木の洞《うろ》を吹くような声であった。 「海尊殿ですね」 「はい」  海尊はうなずいた。 「山込めの呪をかけられ、あの世へもこの世へも、どこへもゆくことかなわず、ここに埋められたままになって五年……」 「そこで、伊成殿の歌と琵琶を耳にされたのですね」 「はい」  海尊は、また、静かにうなずいた。   春霞たなびく山のさくら花うつろはむとや色かはりゆく  さびさびとした声で、海尊はその歌を口にした。 「この歌にある�山�の字がどうしても欲しくて、あの琵琶の音に縁を結んで、毎夜、伊成様のお屋敷までしのんでいっていたのでござります」  そうすれば、海尊の額の�山�の字に、歌の�山�の字が重なって、�出�という字になる。 「そういうことであったのか」  ようやく、納得したように博雅がうなずいた。 「しかし、ひとつ、わたしにもわからぬことがあります」  晴明は訊いた。 「何なりと。こうして、魂を解き放ってくれた晴明様に、何か隠しごとをするつもりはござりませぬ」 「五年前、何故、帝に呪を?」 「そのことでござりまするか」  海尊が、その唇に、小さく笑みを浮かべた。 「銭が欲しかったのでござります」 「銭?」 「銭と、欲──」 「欲?」 「帝を呪うたは、恨みからではありませぬ。呪うても、どうせ、わが呪を返せるものなぞ、あろうはずはなかろうと、たかをくくっておりました。安倍晴明、賀茂保憲、名は聴こゆれども、都陰陽師なぞおそるるに足らず。どうにも手のほどこしようがなくなったところで、わたしが出てゆき、自らかけた呪を自ら解く。これで、銭も地位も手に入ると思うたのですが……」 「保憲様に、呪を返されたのですね」 「はい」  海尊はうなずいた。 「くやしまぎれに、おまえに祟ってやると言ったばかりに、このようなことになってしまったというわけでござります。いや、お恥かしき限りのこと……」  海尊は、晴明を見やり、 「ありがとうござりました」  深々と頭を下げた。 「これで、ようやっと、旅立つことができまする」  海尊は、頭上を見あげた。  その上に、はらはらと桜の花びらが舞い降りてくる。 「なんとみごとな桜であろう……」  小さくつぶやいた。 「伊成殿にお伝え下され。よい琵琶であったと……」  そう言った海尊の唇が、すうっと閉じられた。  そのまま、海尊は仰向けに倒れ、桜を見あげるかたちになった。  唇に、小さく笑みが点った。  海尊の眼が、静かに閉じた。  その顔の上に、桜の花びらがつもってゆく。  海尊の唇は、二度と、動くことはなかった。 「ようやく、ゆかれたのだな……」  博雅がつぶやいた。 「ああ」  晴明が、低い声でうなずいた。 [#改ページ]   飛仙      一  酒を飲んでいる。  昼を過ぎてはいるが、まだ、陽は庭に射している。  庭の一画に、沼の如き池があり、その水面近くを、何匹もの蜻蛉《とんぼ》が飛んでいる。  幾らも羽根を動かしているようには見えないのに、蜻蛉は、上手に風の中に浮き、右に左に飛んでは、小虫を捕えて喰べている。  梅雨は、すでに終っていた。  すでに、夏の陽射しである。  紫色の菖蒲《あやめ》が、池の汀渚《みぎわ》に咲いている。  その葉先に蜻蛉が、ひとつ、ふたつとまっている。  もう少し陽が傾けば、涼しくなるのだろうが、まだ暑い。  土御門小路にある、安倍晴明の屋敷──軒下の簀子《すのこ》の上に座して、晴明は、源博雅と酒を飲んでいる。  晴明は、涼しげな白い狩衣《かりぎぬ》で、ふんわりとその身を包んでいる。  暑さを少しも感じていないのか、晴明の額には、わずかの汗も滲《にじ》んではいない。  時おり、右手が運んできた白い器《かわらけ》に、紅い唇が触れる。酒を含むその唇が、微かにほころんで笑っているように見えるのは、常のことであった。 「不思議なものだなあ」  博雅が、器を唇から離し、池の方に眼をやりながら言った。 「何のことだ」  視線だけを博雅に向けて、晴明が言う。 「蜻蛉だよ。どれほども羽根を動かしているように見えぬのに、あのように風の中を浮いたり疾《はし》ったりする」  博雅の言う通り、蜻蛉は、風の中でふいに止まってみせ、次にはいきなり横ざまに飛んで、水面を突ついてみせたりする。 「まことによくできあがっている。自然《じねん》の妙《みよう》という他はない」  博雅は、感心したように、自分でうなずいている。  ふたりの間には、塩をふって焼いた鮎が載った皿が置かれている。  千手の忠輔が、鴨川で捕れた鮎を持ってきたものである。  黒川主の一件で、晴明が忠輔の娘を助けてやってから、毎年、今時分になると、忠輔から鮎が届くのである。  晴明は、焼かれた鮎に手を伸ばしながら、 「そろそろどうだ」  博雅に向かって言った。 「そろそろ?」 「博雅よ。今日は、わざわざ蜻蛉に感心してみせるために、おれのところまでやってきたわけでもあるまい」 「う、うむ」 「何かの用事があって来たのだろう?」  晴明は、そう言って、白い歯で手に持った鮎を噛んだ。  焼けた鮎の香が、風に運ばれてゆく。 「いや、実はそうなのだ、晴明よ」  博雅は言った。 「さしずめ、話は、今評判の、宮中に出るという妖《あやし》のことではないか」 「なんだ、わかっていたのか」 「四日ほど前の晩には、兼家殿も、清涼殿《せいりようでん》で、妖をごらんになられたのだろう?」 「その通りさ、晴明。この頃、宮中で妙なことばかりがおこるのだ」 「酒はまだある。ゆるゆると話をしてくれ。その話が済む頃には、夕刻になって多少は涼しくなっているだろう」 「わかった」  そううなずいて、博雅はその妖の話を始めたのであった。      二  最初に、その声を耳にしたのは、藤原成親《ふじわらのなりちか》であった。  十日ほど前──  宿直《とのい》の晩、厠《かわや》へ出かけた成親が、その帰りに、妙な声を聴いたというのである。 「いや、弱ったなあ……」  そういう声であった。  しみじみと、本当に弱り果てているような声である。  こんな晩に、いったいどこの誰が、弱ったなどと口にしているのか。  清涼殿へ向かう渡殿《わたどの》を歩いていた時である。  はて、このような深更《しんこう》にいったい誰かと思っていると、 「なんとも困ったことだ……」  また声が聴こえてきた。  いったい何を弱っているのか、誰が困っているのか。  他にも宿直の者はいるが、その誰の声でもない。  知らぬ間に、声に吸い寄せられるように、足がそちらの方に向いていた。  紫宸殿《ししんでん》の方である。  紫宸殿の簀子の上までやってきてみると、 「さて、どうしたものか」  声は上の方から聴こえてくるのである。  紫宸殿の中ではなく、外、しかも上方から聴こえてくる声の主《ぬし》は、どうやら屋根の上にいるらしい。  このような刻限《こくげん》に、紫宸殿の上に誰かが登って独り言を言っているのである。  簡単に登ることのできる高さではなかった。  これが、人であるはずがない。  鬼だと思った途端に、成親の身体はがちがちと震え出した。  皆のところへもどって、さっそくそのことを告げると、 「よし、では紫宸殿まで、行ってみようではないか」  ということになった。  しかし、人数はいるものの、紫宸殿までゆく渡殿の途中で足が止まってしまった。  鬼と聴いて怖ろしくなり、とてもそこまでゆけなくなってしまったのである。  渡殿の中ほどで立ち止まり、成親が軒下から紫宸殿の方を見あげれば、屋根の一番高いところに、ぽつんと影が見える。 「あれじゃ」  成親が言った。 「どれじゃ」 「おう、確かに」 「誰ぞ、屋根に」  おりから、半月が出ており、月影に照らされているそれは、人影のようであった。  誰ぞが、屋根の一番高い場所に腰を下ろしてうずくまっているらしい。 「まさか、人があのような場所に──」 「だから、鬼じゃと言うているではないか」  皆で言いあっているうちに、 「おう」  と誰かが声をあげた。  その黒い影が動いたのである。  屋根の斜面を、つうっとそれが滑り下りてくる。  軒先まで滑ってくると、その影は、そのまま、ぽんと宙に放り出された。 「あっ」  と見ている者たちは声をあげた。  そのまま、どさりと地面にその影が落ちてくるかと思えたのだが、その音がしなかった。  影は、そのまま、どこかへ消えてしまったのである。  その晩から、宮中でその妖の声を聴く者が多くなったのである。 「見つからぬなあ……」 「どこぞを捜したものか……」 「ううむ」 「困った」  聴くのは、そういう声であるという。  ある晩は、月光の中を、ひらひらと赤いものが宮中の上に舞っていたというのである。  たまたまそこに居合わせた平直継《たいらのなおつぐ》が、弓を用意させ、矢を番《つが》えてひょうとそれを射た。  矢は、みごとにその赤いものに当り、ふわりとその赤いものが落ちてきた。 「それ」  と見にゆくと、それは、女房が桜襲《さくらがさね》に着る赤い衣《きぬ》であった。  またある晩──  内裏《だいり》の北で、ふわり、ふわりと、七尺あまりの高さまで飛び跳ねながら歩いている人影を、見回りの者が見た。 「誰《たれ》か!?」  と誰何《すいか》すると、影は答えずに、近くにある松に跳んで、枝を掴《つか》み、樹上に姿を消した。 「逃《のが》すな」  人を呼び、その松を囲んだ。  近くには樹も何もなく、八方を十人近くで囲んだので、樹から降りて逃げるわけにもゆかない。  弓と矢を用意したが、あいにく月を雲が隠しており、樹上に何かが見えるわけではない。  どれが枝で、どれが葉で、どれが人影かわからない。  そうしているうちに、上から石が降ってきた。  ひとつ、  ふたつ、  みっつ、  松の樹上にいる者が、どういうわけか持っていた石を、投げつけてくるものらしい。 「ならば」  と、弓に矢を番えて、心あたりに樹上を射たが、枝に矢の刺さる音はするものの、手応えはない。 「あせることはない」  こうして、朝まで囲んでいれば、やがて明るくなり、樹の上の者の正体も知ることができよう。  そうして、夜が明けて明るくなってみれば、樹上のどこにも何者の姿もない。  人が上に登って見れば、昨夜射た矢が、三本、枝に刺さっているだけである。  樹は、十人からの人間が囲んでいる。  逃げる隙はない。  いったい、どうやって逃げたのか。  やはり、人ではなく鬼ではないかということになった。  だいたい、人が七尺も跳びあがることなどできるわけがない。  兼家の場合は、こうであった。  兼家は、夜に訪問を受けた。  やってきたのは、藤原友則であった。  娘の容態が、なかなかよくならないというのである。  それより、三日ほど前──兼家と友則は、宮中で顔を合わせている。  そのおりに、友則の娘の話となった。  友則の娘は、名を頼子《よりこ》といって、今年十七歳になる。 「実は、しばらく前より、頼子が疝気《せんき》の病《やまい》になりましてなあ」  なかなか具合いがよくならないのだという。 「ものも喰えずに、腹のあたりを押さえては苦しがっておりましてな」 「それは疝気の虫が入ったのであろう」 「そう思いまして、典薬寮から薬をもらって飲ませたのですが、いっこうに効く気配がありません」 「おう、ならばよき薬がある」  そう言って、兼家が、持っていた薬を友則に与えたのである。  そういうことがあった三日後の晩に、友則が兼家の屋敷にやってきたのであった。 「どうじゃ、頼子殿の具合いはよくなられたか──」 「いや、それが、いっこうに──」 「薬は飲ませたか」 「飲ませましたが、よくなりません」 「よくならない?」 「いや、疝気の虫の方はおさまったのですが、今度は別の病になってしまったのです」 「別の病というと?」 「気ふれでござります」 「気ふれ!?」 「いただいた薬を飲んだ後、何やらよからぬものが憑いたようになって、高い場所を好むようになってしまったのです」 「ほう」 「ただ、高い場所を好むのならそれでいいのですが、頼子は、そこから跳ぶのでございます」 「跳ぶ?」 「はい。庭の石の上や、簀子の上から跳びおりているうちはよかったのですが、そのうちに、木の上からも跳ぶようになりまして──」 「むう」 「やめさせようとしてもやめませぬ。今日などは、知らぬうちに屋根に登って、そこから下に跳びました」 「なんと──」 「落ちて頭を打ち、意識を失ってしまいました」  友則は、おろおろと両手を擦《す》りあわせ、 「その知らせをもらって、わたしも急いで駆けつけたのですが、実はまだ頼子は床《とこ》に伏せたままなのです」  訴えるような眼で、兼家を見た。 「それが、わたしの与えた薬のせいであると?」 「いえ、そうは申してはおりませぬ」 「しかし、疝気の虫はおさまったのであろうが。わたしの薬と、頼子殿の気ふれとは別の話ではないか──」 「ですが、薬をいただいてからのことであり、何かよいお考えはないかと思い、こうしてやってきたのでございます」 「わたしには、どうにもできぬ。これは、薬師《くすし》か陰陽師に話をもっていった方がよかろう」  そういう話をして、友則が帰っていった。  それでは眠ろうかと、兼家が寝所へ向かって簀子の上を歩いているおり、件《くだん》の妖《あやし》に出会ったのだという。  歩いてゆくと、ふいに、眼の前に何かの黒い影が、屋根の軒下からぶら下がっていたというのである。  ちょうど、人くらいの大きさのものが、軒の内側から、なんと逆さにぶら下がっている。 「や……」  と兼家が声をあげると、件《くだん》の影は軒の裏側を歩き出した。  逆さになったまま、ひょいひょいと歩き、軒先まで来ると、そのまま空に向かって足を踏み出して、まるで夜の天に向かって足から落ちてゆくように姿を消してしまった。  そこにいたって、ようやく兼家は、自分が今、宮中で評判になっている妖と出会ったらしいことに気がつき、 「あなや」  大きな声をあげたというのである。 「どうなされました」  家の者が駆けつけると、 「あやしじゃ、妖のものが出た」  兼家は、簀子の上に尻を落として、軒の向こうの天を指差した。  駆けつけた者たちは、庭へ出て、天を見あげたり、屋根の上に眼をやったりしたが、すでに、どういう影も、そこには見えなかった。      三 「で、博雅よ。妖のことでと言っていたが、おれに用というのは、どういうことなのだ」  晴明が博雅に訊いた。 「兼家殿が、おれを呼べとでも言ってきたのか」 「いや、おまえに用というのは、兼家殿ではない」  そう言った博雅が、さらに口を開こうとするところへ、それを遮《さえぎ》るように、 「藤原友則殿であろう」  晴明が言った。 「その通りさ、晴明、どうしてわかったのだ」 「おまえの話を聴いていれば、そのくらいの見当はつくが、友則殿の娘のことについては、こちらにも事情があってな」 「どういう事情なのだ」 「まあ、その話はあとからすることにしよう。まず、おまえの話から聴かせてくれ」 「わかった」  博雅はうなずき、 「実は晴明よ、藤原友則殿が、今も話をした娘の頼子殿の一件で、ぜひおまえに来てもらえぬかと言っているのだ」  晴明を見た。 「さっき聴いた話の他にも、何かあったということなのだろう?」 「うむ。これもまた、件の妖のことと関わりがあるのだが……」 「ほう」 「実は、声が聴こえたというのだよ」 「声?」 「そうだ」  そう言って、博雅は再び話を始めたのであった。      四  昨夜──  藤原友則は、几帳《きちよう》の陰で、眠らずに頼子の様子をうかがっていた。  座している友則の耳に、頼子の寝息が聴こえている。  几帳の向こう側で、頼子が眠っているのである。  しばらく前まで、ずっと頼子は騒いでいた。  その疲れが、頼子を眠りの淵に誘ったのである。  この数日、頼子の容態に変化が現われた。  高い所から跳ぼうとするだけでなく、しきりと身体の痒《かゆ》みを訴えるようになったのである。 「虫よ」  と頼子が、はじめてそれを口にしたのは、三日前のことであった。 「身体を虫が這ってるのよ」  そう言いながら、身体を掻くのである。 「痒い」  爪を自分の肌に突き立てて掻く。  掻いても掻いても痒みは去らないらしく、音を立てて爪を肌に食い込ませる。 「痒い」 「痒い」  どこか、決まった場所を掻くのではない。  全身──身体中を掻く。  肉をほじるように掻く。  腕、胸、脚、頬、頭──ありとあらゆる場所を掻くのである。 「虫が痒い」  狂ったように掻く。  肌のあちこちは蚯蚓脹《みみずば》れとなり、皮膚がむけ、むけたその上からさらに掻くものだから、肉が裂けてそこから血が滲む。  掻きながら、 「痛い」  とも言う。  痛いと言ったその唇が、次には、 「痒い」  そう言って、また同じ場所を掻く。  身体中|腫《は》れあがり、場所の幾つかは膿《う》んでいる。しかし、膿んでいるからといって、掻くのをやめるわけではない。  膿《うみ》の上から掻く。  爪を立てる。  皮膚は破れ、血と肉で全身が汚れている。  その合い間を見ては、高い所から跳ぼうとしたりするのである。  跳ぶことと掻くこと──このふたつに関わること以外のことを、頼子は口にしない。  それで一日さんざん騒いだあげくに、その疲れで、ようやく頼子は眠りに落ちているのであった。  起きている間は気の休む間もないが、頼子が眠っている時は、わずかに家の者も休むことができる。  しかし、いつ、急に起きて、跳ぼうとしたり、掻いたりするかわからないので、眠っている時でも、誰かが側《そば》に就《つ》いていなければならない。  その晩は、友則が、頼子に就くことになったのである。  深夜──  友則がうとうととしかけた時、ふいに、 「痒い!」  そう叫んで、頼子がとび起きたのである。  友則は眼を覚まし、慌てて几帳の向こう側に行って、頼子の身体を押さえた。  もう、これ以上、頼子が自らの肉体を苛《いじ》めるのを見たくない。 「何をするの、放して」  頼子が暴れた。  信じられないくらい強い力であり、とても取り押さえてはいられない。 「頼子、しっかりするのだ。頼子……」  暴れる自分の娘ともつれ合うようにしている友則に、どこからか、声が降ってきた。 「友則殿……」  と、その声は言った。 「友則殿」  ようやく、頼子の身体を取り押さえ、友則は、首《こうべ》をめぐらせた。  しかし、声の主の姿は、どこにもない。 「頼子殿の病は、薬師では治《なお》せぬ」  その声が言う。 「で、では誰ならば?」  思わず友則はその声の主に訊ねていた。 「そうさなあ……」  声は、しばらく考えるように口をつぐみ、 「まず、これは陰陽師の仕事でございますな」  そう言った。 「陰陽師?」 「安倍晴明殿がよかろうなあ」 「晴明殿……」 「晴明殿以外には、まずこれは治せませぬな。晴明殿をここへ呼んで、治してもらえばよいではないか」  そこで、声が途切《とぎ》れた。 「もし」  何度も、友則は声をかけたが、ついに返事はなかったというのである。      五 「これがまあ、昨夜のことなのだ」  博雅は、晴明に言った。 「で、今朝、友則殿がおれの屋敷へ参られてな。安倍晴明殿に、何とか当屋敷まで来てはもらえませぬかと、相談をされてしまったのだよ」 「なるほど、そういう理由《わけ》か」 「で、不思議なのは、いったい何者が声をかけてきたのかということなのだが……」 「それも、宮中を騒がせている妖《あやし》のしわざであろうというところに落ち着いたのだろう?」 「驚いたな、晴明、その通りだ」  博雅は言った。 「まあ、そういうことで、おれがやってきたというわけなのだよ、晴明」 「少し、変ってきているということだな」 「変ってきている?」 「妖のことだ。最初の頃は、宮中あたりに出て困ったと言っていたのが、兼家殿の屋敷に現われたり、頼子姫のところへ現われたりするようになって、おれの名前まで口にするようになった」 「そこなのだが、晴明。おまえ、このことについて、何か心あたりでもあるのか」 「あると言えばあるが──」 「どういう心あたりなのだ」 「実はな、その妖なのだが、おれのところにも来ているのだ」 「おまえのところにもか」 「うむ」 「さっき、おまえが口にした事情というのはそのことか」 「ああ」 「何があった」 「おれにも声が聴こえてきたのさ」 「いつだ」 「昨夜だ」 「頼子殿のところへ妖が来たのも昨夜だぞ」 「話のぐあいからすると、どうやら、頼子殿のところから、おれのところに来たらしいな」 「話?」 「ああ」  晴明はうなずいた。  昨夜──  晴明は、蜜虫に酌《しやく》をさせながら、簀子に座し、独りで酒を飲んでいた。  瓶子《へいし》一本が半分ほども空いた頃── 「気配があった」  晴明は博雅に言った。 「気配?」 「妙な気配さ。人のようでもあり、人のようでもなかった。半分は人、もう半分は──」 「何なのだ」 「それがよくわからぬ。強《し》いて言うなら、式神の気配のごときものだな」 「式神?」  その気配は、庭の方角から届いてくるが、地上ではなく、上であった。  上を見やれば、庭の松の一番高い梢に、何やら影のようなものがひっかかり、風になびいてゆらゆら揺れている。 「何者か」  晴明は静かに問うた。  すると──  そのゆらゆらと風になびいていたものが、答えた。 「お聴き及びと思われまするが、近頃宮中にて噂されている妖でございます」  人の声であった。  なんと、その影は人であり、右手で松の枝先につかまり、風の流れてゆく方向に足を伸ばして、地面と平行にその身体を風になびかせていたのである。 「何の用か」  晴明が、杯を持ったまま訊ねた。 「陰陽師、安倍晴明様にお頼みしたき儀があって、まかりこしました」  影が身に纏《まと》っている衣《きぬ》の裾が、風になびいて足の先まで伸び、そこで揺れている。 「頼みとは?」 「おそらくは明日、参議藤原友則様の娘頼子姫の御悩《ごのう》のことで、どなたか晴明様を訪ねていらっしゃるかと思われます」 「ほう」 「その御病《おんやまい》、どうか、晴明様のお力によって治してやっていただきたいのです」 「治す?」 「この病、ただの病と違います」 「どう違うと?」 「頼子姫の病、もとはと言えば、このわたくしが原因でございます」 「ほほう」 「故に、なんとか、あの娘を病より救うてやらねばなりませぬ」 「おまえでは、できぬのか」 「できませぬ」  影はうなずいた。 「あの娘、天足丸《てんそくがん》を飲んでおります」 「なに」 「こう申せば、晴明様にはおわかりでしょう」 「わかるが──」  晴明が、さらに言葉をつごうとすると、 「では、ひとつよろしくお願いいたしまする……」  影はうなずき、松の梢を掴んでいた手を放した。  ゆらりと、横になったまま、影が風の中に漂い出た。それまで、川の杭にかかっていた衣が、自然にはずれて流されはじめるのを見るようであった。 「よろしく、お願い申しあげます……」  ゆるゆると風に流されて、影の姿が見えなくなってゆく。 「なにとぞ……」  その声の後、影は夜の色の中に溶け、その姿は見えなくなっていた── 「まあ、昨夜、そういうことがあったということなのさ」 「なるほど」 「今日は、誰が来るのかと思っていたら、博雅、おまえがやってきたというわけなのさ」 「天足丸と言ったか」 「うむ」 「それはいったい何なのだ」 「仙丹さ」 「仙丹?」 「あとで話はしてやるよ。しかし、そろそろ陽も山に入りそうになっている」  晴明の言う通りであった。  さっきまで庭に射していた陽も、すでに空へ逃げていた。 「おう」 「博雅、おまえには、ひとつ頼みがあるのだ」 「何だ」 「兼家殿のところへ行って、友則殿にさしあげた薬を、どこで手に入れたのかをうかがってきてはくれまいか」 「それはかまわぬが、ということはつまり──」 「夜に頼子姫のところで落ち合おう。兼家殿のおっしゃったことは、その時に知らせてくれればいい」 「では、晴明、おまえも行ってくれるのか」 「ゆく」 「そうか」 「うむ」 「ゆこう」 「ゆこう」  そういうことになった。      六 「痒《かゆ》い」 「痒い」  と身をよじっていた頼子は、晴明が持ってきた薬を白湯《さゆ》に溶かして飲ませると、すぐに静かになって眠ってしまった。  仰向けになって眠っている頼子の周囲に、晴明、博雅、そして友則が座している。  ひとつだけ点《とも》されている灯火に照らされて、友則の眉間に刻まれた皺が、さらに深く見えた。  晴明の前には、硯《すずり》と筆が用意されている。 「それでは、衣《きぬ》を脱がせますが、よろしゅうございますか」  晴明が言った。 「全てか──」  友則の声が掠《かす》れている。 「はい。先ほど申しあげた通りでございます」  友則は、晴明を見やり、そして、次には博雅を見やった。  博雅は無言である。  友則の額には、小さく無数の汗の玉が浮いている。  晴明は、友則に答をうながしもせず、さらに問うでもなく、紅い唇を静かに結んだまま、ただ友則の言葉を待っている。  決心がついたというよりは、その沈黙に耐えられなくなったように、 「わかった」  友則はうなずいていた。 「おぬしにまかせたのだからな……」  声が震えた。 「それでは」  晴明は、眼を伏せ、頭を小さく下げてから再び眼を開いた。  こういう時でも、結ばれた晴明の紅い唇には、ほんのりとあるかなしかの涼しげな笑みが点っている。  晴明は、頼子の着ている衣に手を伸ばし、よどみのない動きでそれを脱がせていった。  頼子の裸身が露わになった。 「むう」  声を喉の奥で押し殺したのは、友則であった。  頼子の裸身で、無事なところはどこにもなかった。  顔、頸、肩、両腕、乳房、腹、両足、あらゆる場所に至るまで、掻き傷があり、皮が破れ、肉がほじくれているところもあった。  ふくよかな左の乳房の半分は、瘡蓋《かさぶた》で覆われている。  膿がたまり、紫色に肉が変じているところもある。  俯《うつぶ》せにすれば、おそらく背中から尻にかけても、同様になっているであろうと思われた。 「始めましょう」  晴明は小さくつぶやいて、筆を手に取り、墨をたっぷりと含ませた。  その筆で、まず、頼子の左足の小指に、何やらの文字を書き始めた。  同時に、小さく晴明が口の中で呪《しゆ》を唱え始めた。  小指が終ると、次が薬指。薬指が終ると次が中指。中指が終ると次が人差し指。人差し指が終ると次が親指。  次が足の裏。  中足。  踵《かかと》。  甲。  踝《くるぶし》。  次から次へと何やらの呪の文字が細かく書き込まれてゆく。  左足首が終ると、次が右足首であった。  その文字が、だんだんと両足の付け根の方に向かって書き込まれてゆく。  腹、乳房、右腕、頸、顔──耳にも唇にも瞼《まぶた》にも書き込まれた。  頼子の身体が裏返され、尻にも背にも、そして肛門にも陰《ほと》にもその文字が書き込まれた。  再び頼子の身体が仰向けにされた時、頼子の肌は、ほとんど隙き間なく呪の文字で埋め尽くされていた。  ただ、左腕だけに、その文字が書かれていない。 「そ、それは何だ」  友則が、震える声で晴明に訊ねた。 「孔雀明王《くじやくみようおう》の咒《ダラニ》でございます」  常と同じ声で、晴明が答えた。 「み、密《みつ》の真言ではないか」 「効くものであれば、何でも用います。陰陽師が密の真言を使って悪いという法はありません」  孔雀明王は、もともと天竺《てんじく》の神である。  毒蛇や毒虫を喰べる孔雀が神格化され、仏教の守護神となったものだ。  密というのは、密教のことだ。 「では」  晴明は右掌を頼子の腹にあててから、次に左手を握って人差し指と中指をそろえて立てた。  その二本の指を、自分の下唇にあて、小さく孔雀明王の咒──孔雀明王咒《くじやくみようおうじゆ》を唱え始めた。 「ナモ ブッダーヤ ナモ ダルマーヤ ナマ サンガーヤ ナマ スヴァナヴァーサシャ…………」  と──  晴明の唱える咒に応えるかのように、頼子の肌の表面がざわめいた。  もこり、もこりと、腹や胸の肌のあちこちが盛りあがる。  ぷくり、ぷくりと、顔や右腕、両足の表面が盛りあがる。  まるで、肌の内側、肉の中を大小の蟲がもぞもぞと這いながら移動してゆくかのように見えた。 「むむう……」  博雅が、低く唸るような声をあげた。  それが次々に、頼子の、何も書かれていない左腕に集まってきた。  見ている間にも、左腕が太くなってゆく。  不気味な光景であった。  全ての這うものたちが左腕に集まった。  左腕だけが、足よりも太くなっていた。  その太い左腕の中を、蟲のようなものが、しきりと動きまわっている。 「よし」  晴明は、小さくつぶやいて、こよりで頼子姫の左腕の付け根を縛った。  次に、また筆を手に取り、さかんに蠢《うごめ》いている左の二の腕に、 �集�  という文字を書いた。  再び、晴明は左手の人差し指と中指の二本を自分の下唇にあて、右手で頼子の左手を握った。  また、孔雀明王咒を唱える。  すると、あのもこもこと動いていたものたちが、二の腕に集まりはじめた。  同時に、二の腕あたりが黒くその色を変じてゆく。  とうとう、晴明の書いた�集�という文字を中心に、動くものが集まりきった。その場所だけ、どす黒い水ぶくれのようになり、その大きさは、大ぶりの瓜《うり》ほどにもなった。 「おおう」  友則が声をあげた。  晴明は、呪を唱えるのをやめ、 「ここらでよろしいでしょう」  懐から短刀を取り出し、鞘《さや》をはらって、�集�と書かれた文字の上を、ぷっつりと切り裂いていた。  ぱっくりと割れたその切り口から、身の毛のよだつようなものが現われた。  それは、無数の蟲であった。  黒い百足《むかで》のようなものに、蝶の羽根のようなものが生えているもの。  蛾《が》に似ているが、蛾ではないもの。  甲虫《かぶとむし》のようなもの。  顔が蛇に似た雀のようなもの。  蠅《はえ》に似たもの。  蜻蛉に似たもの。  蝉に似たもの。  ありとあらゆる形状をした夥《おびただ》しい数の蟲が、その裂け目からうぞうぞと這い出てきたのである。  這い出てくるそばから、それは宙に飛びたち、開けたままの蔀戸《しとみど》から外へ消えてゆく。  いくらもしないうちに、頼子の腕はもとの太さにもどっていた。  二の腕に、晴明がつけた傷が残って、小さく血を滲ませているが、それは思ったよりも小さな傷であった。  晴明は、頼子の上に、さきほど脱がせた衣をかけてやり、 「これでよろしいでしょう」  涼しい声でそう言った。 「す、すんだのか」  友則が言った。 「すみました」  晴明は微笑し、 「頼子姫には、今ここであったことはお話しなさらぬ方がよろしいでしょう。何か訊かれたら、この晴明が治したと、もう心配はいらぬからとお伝え下さい」  そう言った。 「もう、これでよいのか」 「はい。傷の方も、じきに治ると思われます──」 「そ、そうか」 「では、わたしと博雅様は、これにて失礼いたします」 「もうゆくのか」 「まだ、こちらのことで、ひとつやり残したことがござりますれば──」  そう言って、晴明は立ちあがっていた。      七  門の外で、牛車が待っていた。  牛車に乗る前、晴明は背後を振り返り、 「あれでよろしかったか妖《あやし》殿──」  門の上に向かって声をかけた。  すると、 「重畳《ちようじよう》、さすがは晴明殿……」  暗い門上より声が降ってきた。 「ゆるりとうかがいたきことなどあれば、今夜、わが屋敷にいらしていただけまするか──」  晴明が、門上の主《ぬし》に言った。 「よろしければ参上つかまつりましょう」 「酒など用意しておきますれば、一献《いつこん》いかがですか」 「それは願ってもなきこと」 「ぜひ」 「ちょうど、南の風がゆるゆると吹いておりますれば、石など拾って、少し遅れてうかがいましょう」 「では──」  そう言って、晴明は博雅と共に牛車に乗り込んだのであった。      八  晴明は、博雅と飲んでいる。  蜜夜が、ふたりの間に座して、ふたりの杯が空になると、そこに瓶子から酒を注ぐ。 「なんとも、不思議なものを見させてもらったよ──」  博雅は言う。 「あの蟲のことか」  晴明が言った。 「あれは、いったい何だったのだ」 「天足丸の、まあ、言うなれば精のようなものなのだが──」 「そうだ。天足丸のことを聴いていなかった。いったい何なのだ、その天足丸というのは──」 「仙丹だと言ったはずだ」 「仙丹?」 「薬さ」 「薬?」 「人が、仙人になるための薬だな」 「仙人になるだと?」 「昔から、人が仙人になるには、色々な方法があると言われている」  晴明は言った。  仙人になる──不老長寿を得て天界に遊ぶというのは、古来より中国文化が生んだ人の夢であった。  その方法にも色々とある。  多くは、修行によるものだ。  呼吸により、体内に天地の気を取り込み、それによって仙人になる。  あるいは行動によって、あるいは穀断《こくだ》ちなどの食物を調整することによって、人は仙人になる。  師を得て仙人になる方法もある。  どれも、簡単なものではない。  何年も、何十年も、時には一生かかってもできぬ方法もある。  修行のいらない、一番楽な方法が、薬を飲むことである。 �丹《たん》�  と呼ばれる薬を飲む。  丹《たん》、丹《に》、どれも水銀のことだ。  水銀は金属でありながら液状であり、鍍金《めつき》するのに必要のものである。  この丹《たん》に、不思議の力があり、人を不老長寿にすると考えられていた。  このうちの最上のものが、金丹《きんたん》と呼ばれる仙薬である。  これを飲めば、誰でもたちどころに仙人になれると言われているが、ただ、作るのが簡単ではない。  金丹にも色々と種類がある。  丹華、神丹、神符、還丹、餌丹、錬丹、柔丹、伏丹、寒丹──この九種である。  このうちの丹華を作るには、まず始めに玄黄《げんおう》を作れと言われている。これに雄黄水、明礬《みようばん》、戎塩《じゆうえん》、鹵《ろ》塩、|※[#「與+石」、unicode791C]《よ》石、牡蠣《ぼれい》、赤石|脂《やに》、滑石、胡粉など各数十斤を煮て、六十一|泥《でい》となし、これを火に焼くこと三十六日にして、丹《たん》ができるというのである。  しかし、何のことだかよくわからないものが多い。  まず、玄黄というものが何だかわからない。何だかわからない材料が多すぎて、何をどこで手に入れてよいかがわからないのである。どのくらいの量をそれぞれ使用するのかもわからない。  ともかく、そうして作った丹を玄膏《げんこう》で丸め猛火の中に置けば、黄金となり、丹華という金丹ができるという。  できなければ、どこかが間違っているのであり、何度でもやりなおせばよいというのである。  これでは、一生かかってもできない。  蛇骨、麝香鹿《じやこうじか》、猿の脳髄、牛黄、真珠の粉、多くの数限りない薬草──そういったものを混ぜ合わせ、熱せられ、煮られて、仙丹は作られる。 「まあ、天足丸というのは、そういう仙丹のひとつだが、飲めば仙人になるというよりは、空を飛ぶことができるようになるだけだな」  晴明が言った。 「それで天足丸か」  博雅がうなずいた。 「丹《に》は使ってない」 「どうやって作るのだ」 「まず、五芝《ごし》を用意する」 「五芝?」 「石芝、木芝、草芝、肉芝、菌芝……」 「他には?」 「烏、雀、蛾、蝶、蜻蛉、甲虫、羽虫、蚊、蠅、蝉、空を飛ぶものなら何でもよい」 「どのくらい必要なのだ」 「百や二百ではないな」 「───」 「千匹、万匹のものを生きたまま大きな甕《かめ》の中に入れてこれを煮る」 「どのくらい煮るのだ」 「さあて──」 「どのくらいなのだ」 「だから、全てがとろとろにとろけて、そのかたちが失くなるまでさ」 「すると、骨も、羽根も、歯も、何もかもということか」 「何もかもだ」 「いったいどれだけかかるのか、おれには見当もつかないよ」 「おれにだって、見当などつかぬ」 「ともかく、それで、天足丸ができるのか」 「まだだ」 「まだ?」 「そのできあがったものを百日、烏に喰わせ、百日後にその烏を殺して肝《かん》の臓を取り出し、さきほどの五芝と──」 「もういい。とにかく、天足丸を作るだけでもたいへんなことだと言いたいのだな」 「いいや、天足丸は、中でも楽な方なのだ。何しろ、空を飛ぶことができるだけだからな──」 「おれにとってはたいへんなことさ。しかし、しばらく前に見たあれは、その天足丸とどういう関係があるのだ」 「天足丸というのは、ようするに、それを作るために殺した生き物たちの精を集める方法でな。結局、そうやっても一度にできるのは、ひと粒かふた粒さ──」 「生き物たちの精?」 「その精が、天足丸を飲んだ頼子姫の身体の中に溜まり、さきほど出て行ったのさ」 「ふうん」 「それより博雅、おまえの方はどうだったのだ」 「おれのほう?」 「兼家殿に訊いてもらった件さ」 「それならわかっている」 「どうやって手に入れたと?」 「ひと月ほど前に、清涼殿の前で拾うたものだと言っておられた」 「拾った?」 「渡殿を渡って清涼殿までゆく途中、ふと下を見たら、布袋が落ちていたというのさ」 「布袋?」 「これほどの大きさのものだったそうだ」  博雅は、杯を下ろし、両手で大人の握り拳ほどの大きさの輪を作ってみせた。 「何だか、妙に気にかかって、人を下にやらせて、それを拾わせたのだそうな」  中には、丸薬が十粒ほど入っていた。  誰が落としたのかわからない。  何人かに声をかけてみたが、いずれも心あたりがないという。  それから七日ほど経ってから、兼家は、腹を壊した。食にあたったらしく、腹が痛み、尻の栓がゆるくなって、何度も厠《かわや》へ通った。  その時に、布袋と丸薬のことを思い出した。  布袋を開いてひと粒、ふた粒、丸薬を出してみれば、なんだか妙にそそられる匂いがする。この匂いを嗅いでいると、なんだか腹の痛みも忘れ、ゆるくなった尻も治りそうな気がしてきた。  まさか、毒でもあるまいと思い、念のため桶《おけ》に水を張り、そこへ生きた鮎を放して丸薬のひと粒を入れてみた。  鮎は死ななかった。  かえって元気になって桶の中を泳いでいるように見える。  それではと意を決して、水と一緒にその丸薬を飲んだ。 「で、治ってしまったというのさ」  博雅は言った。  半刻もせぬうちに、腹の痛みはひき、ゆるくなっていた尻ももとにもどった。 「それから、頭が痛くなったり、ちょっと具合いが悪いおりなどに、その丸薬を飲むようになったらしい」  いずれの場合も、病はたちどころに良くなった。 「まあ、そういう時に、藤原友則殿から頼子殿の話を聴いて、その丸薬を渡したというのさ」 「それが、天足丸だったというわけだな」 「しかし、晴明よ。それが天足丸だというのなら、どうして、兼家殿は、空を飛べるようにならないのだ。どうして、頼子殿は気ふれになったというのに、兼家殿は気ふれにならないのだ」 「そのことならば、博雅よ、御本人にうかがってみるのが一番ではないのか」 「本人!?」 「妖《あやし》殿、もういらっしゃってるのでしょう?」  晴明が夜の庭に声をかけると、 「おります」  そういう声が返ってきた。  庭を見やれば、池の上に小さな人影が立っていた。 「おう」  博雅が声をあげたのも無理はない。  その小さな人影は、池の水面に素足で立っていたのである。  月明りによく見てみると、それは、猿のように小さな、頭のつるりと禿《は》げあがった老人であった。  髭《ひげ》だけが、白く、長い。  ぼろぼろの衣を一枚だけ着て、腰のあたりを紐《ひも》で締めている。  老人は、ふたふたと水面を足で踏みながら歩いてきた。  足で踏むたびに、水面にきれいな波紋の輪が広がった。  やがて、老人の素足が草を踏んだ。  晴明と博雅の座した簀子の前まで歩いてくると、そこで立ち止まり、 「お世話になりましたなあ」  皺だらけの顔を、さらに皺で埋めて笑った。 「あなたが天足丸を落とされたのですね」  晴明が言うと、 「はい」  老人は、顎をひいてうなずいた。 「いったい、あなたはどういうお方なのですか」 「身の上話など、もうするつもりはなかったのですが、晴明様にはこたびはたいへんにお世話になりました故、お話し申しあげましょう」  老人は、晴明と博雅を、交互に見やりながら言った。 「わたしは、だいぶ昔に大和の国で生まれた者でございます。一時は、竿打《さおう》ち仙人とも呼ばれておりました……」 「ほう」 「若い頃より、仙道に興味を持ち、松葉を食したり、導引《どういん》をしたりと我流にて仕事もせずに仙道の修行をしてまいりました」  老人がしゃべっている間に、蜜夜がもうひとつ杯を用意し、それに酒を満たして、簀子の縁に置いた。 「これはこれは──」  老人は杯を手にして、皺だらけの唇をすぼめ、一滴もあまさずそれを飲んだ。 「いや、甘露……」  眼を細めて老人は言った。 「しかし、生まれつき仙骨がないのか、三十年修行をしても、いかほどの験力《げんりき》も得られませなんだ」 「で?」 「不老長寿は無理としても、せめて久米仙人のごとくに空くらいは飛べるようになりたいと、十年ほどかけて仙丹を作りました」 「それが天足丸だったのですね」 「金丹などは、とても手におえませぬ。実を言えば天足丸も、上手にできたわけではありませぬ。飲んで、ようやく空に浮くことはできるようになりましたが、七、八尺から十五尺くらいまでしか高く浮きません。しかも、本当に浮くだけで、飛ぶことができないのです」  老人は、なんとも言えぬ顔で溜め息をついた。 「風に漂って流れてゆくことはできるのですが、飛べませぬ。宙に浮いていると、子供たちが竹竿を持ち出してきては、おもしろがって、下からわたくしを打つので、いつの間にやら、竿打ち仙人などと呼ばれたこともござりました」  老人は、哀しそうな顔で笑った。 「で、二十年ほど前に大和の国を出まして、あちらこちらをうろうろとしてまいりました。昼は、常の人のごとくに地を歩き、夜に人眼を忍んで宙に浮くようになりました。都へは、ひと月ほど前に出てまいりましたのですが、夜に内裏の上を風のままに流されているおり、薬や天足丸を入れていた布袋を落としてしまったのです。後で気がついて、捜しに行ったのですが、どうしてもそれが見つかりません。誰かが拾ったに違いないと、宮中に入り込んで捜そうとしたのですが──」 「それを、色々と人に見られたわけですね」 「はい。ある時などは、人が来たのであわてて空へ逃げたおり、女の赤い衣を足にひっかけたまま浮いてしまったこともござりました。それを、下から射られたこともありました」 「で、天足丸のことですが──」 「はい。どうやら、藤原兼家様が拾われたということまではわかったのですが、取りもどそうとした時には、もう──」 「兼家様が、頼子姫のために、天足丸を友則様にさしあげてしまったあとだったのですね」 「そうです。実は、あの袋の中に入っていた天足丸はひと粒だけで、他の丸薬は全て別のものです。何にでも効く万病薬のようなもので、見た眼は天足丸との区別はつきません」 「で、頼子姫がそれを飲んでしまったと──」 「あの天足丸は、わたしにしか効きませぬ。使った蟲はすべて雄であり、わたし自身が洩らした男の精を混ぜて作りました故、女の方が飲まれると、たいへんなことになるとわかっておりました」 「それで姫はあのように──」 「はい。高い所へ上って飛ぼうとしたのも、蟲の精の影響を受けてのこと」 「しかし、どうして、御自分で、姫に憑いた蟲を落とさなかったのですか」  晴明が言うと、老人は淋しく笑った。 「わたくしが、このようななりで出かけてゆき、姫を治してしんぜるから衣を脱がせよと言って、そうしてくれると思いまするか」 「無理でしょう」 「それがわかっておりました。さらに申せば、実は、このわたくしには、空に浮く他は、どういう通力《つうりき》もないのです。晴明様におすがりするしかなかったのです」 「なるほど──」 「それにいたしましても、かさねがさね、このたびはお世話になりました」  言いながら、老人は、空になった杯を、ことりと音をたてて、簀子の縁に置いた。  手を懐に差し込んで、小石を取り出し、それを自分の足元にぽろりと落とした。  老人の身体が、ふわりとゆらいだ。  老人は、また懐に手を入れ、ふたつめの石を取り出し、それを捨てた。  小さく、老人の身が、三寸ほど宙に浮いた。  次々に、懐に手を入れて小石を捨てるたびに、老人の身体が浮きあがってゆく。 「これが最後──」  その小石を捨てた時には、もう、老人の身体は軒よりも高く浮きあがっていた。  ゆらゆらと、老人の身体が風に流れはじめた。  月光の中を、老人は、北へ流されてゆく。  晴明と博雅は、軒ごしに、老人を見あげている。 「うまい酒でござりましたなあ……」  老人の声が、小さく響いてきた。 「こういう生き方も、淋しいながら、そこそこには楽しゅうござりまするぞ……」  その声を最後に、ほどなく、老人の姿は月光に溶けたように見えなくなっていた。 「行ってしまわれたのだな……」  博雅が、杯を手にしたまま、小さい声でつぶやいた。 「うむ」  晴明がうなずいた。  簀子の先で、老人が置いていった、空になった杯が、月光を受けて青く光っていた。 [#改ページ]   あとがき  ぼくの大好きな、安倍晴明と源博雅の話の新刊を、ここにお届けしたい。  文春版としては五冊目。  朝日新聞社版の『生成り姫』を合わせれば六冊目。  絵物語の『瘤取り晴明』(文春版)を合わせれば、七冊目の『陰陽師』ということになる。  二〇〇一年は『陰陽師』にとって、節目となった。  春には、NHKで『陰陽師』を原作としたドラマが一〇回にわたって放映され、秋には映画『陰陽師』が公開された。  TVの方は、SMAPの稲垣吾郎さんが晴明を演じてくれたのだが、初々しい晴明であったと思う。  すでに、映画の方では、ぜひ晴明は野村萬斎さんでとお願いしていたこともあり、TVの方の配役については全て製作側におまかせをした。映画では萬斎さんにお願いしておきながら、TVの方では、晴明はどの役者さんがいいとぼくが言うのもおかしい話になってしまうからである。TVの方は、晴明が稲垣吾郎さん、源博雅が杉本哲太さん、蜜虫が本上まなみさんという、実に上手な配役となった。脚本についても、TV版においては、ぼくはほとんど関わっていない。その意味では、ぼくは原作者ではあるけれども、TV版については皆さんと同じ一視聴者という立場でもあったのである。  映画については、萬斎さんの晴明がよかった。  伊藤英明さんの博雅は凜凜《りり》しく、道尊の真田広之さんも素晴らしい。  監督が滝田洋二郎さん。  野村萬斎の晴明ということについて言えば、ここまで、役と役者がはまるというのも、近頃めったにない事件であったのではないか。同じ時代に野村萬斎という役者がいたというのも、なんというめぐり合わせであろうか。  野村萬斎という役者は(他でも書いたのだが)、ただ独りでそこに立つというそれだけのことで、舞台に必要な全てのものをそこに成立させてしまう。  萬斎さんがいてくれて、本当に良かったと思っている。ラストの萬斎さんの舞いを見るということだけでも、観にゆく価値のある映画になっていると思う。  ところで、他社の本の宣伝になってしまうのだが、今、朝日ソノラマから出版されている『キマイラ』シリーズを、ぜひ読んでいただきたい。  今回は、これを言っておきたかった。 『陰陽師』は、すでに一六年以上も書いてきているのだが、この『キマイラ』シリーズもまた、長きにわたって書き続けられている物語である。  なんとも言えぬ美麗の少年の内部に、この世のものならぬ獣が潜んでいて、その獣が、おりに触れてはその肉体の中からたち現われて、少年を悩ませる話である。  この話も、二〇年書き続けられて、『陰陽師』と同様にまだ完結していない。  たぶん、夢枕獏という書き手の全ての要素がこの『キマイラ』という物語の中に入っていると、ぼくは考えているのである。  これを、立ち読みでもいいからぜひ読んでいただきたい。 『陰陽師』をおもしろいと思う読者ならば、必ずこの『キマイラ』もおもしろいと思うはずだからである。  言い切ってしまうなら、気が遠くなるほど長い旅の物語である。  おもしろいこと、ぼくが保証します。  というところで、今回の『陰陽師』五篇をお楽しみ下さい。  平成十三年十一月二十七日 [#地付き]小田原にて    [#地付き]夢枕 獏  単行本 二〇〇二年一月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十七年三月十日刊